「フリータイムス千葉」 という雑誌の1978年9月号にCHILDが登場した。8月21日に行われたイベント 「ROCK ME BABY」 の記事が掲載されたのだ。CHILDのライブが写真と好意的な文面のコメントで紹介されていた。雑誌に載るなんて、当時の高校生には画期的、衝撃的なことだった。いや、今の高校生だって興奮するに違いない。ぼくたち4人どころか友達や先輩、後輩たちの間でも大騒ぎになった。成東高校と匝瑳高校の学園祭での勢いあるライブの評判も相まってか、CHILDの名は近隣の高校にも知れ渡るようになっていった。

  「フリータイムス千葉」 は 「ぴあ」 の千葉版のようなもので、当時、千葉県内で出版されていたタウン誌のひとつだ。県内で行われる音楽、演劇、ダンス、スポーツ等のスケジュールや映画館、美術館等の催しものが掲載され、他にも、県内のイベントやレジャースポットが地域別に紹介されていた。覚えている人も多いだろう。1974年5月から1985年10月に渡って110号が発行された。現在では 「ぐるっと千葉」 や 「千葉ウォーカー」が県内の情報を細やかに発信し続けてくれている。時々手にする機会があるのだが、読み始めると止まらない。千葉にもまだまだ知らないことがたくさんあると教えてくれる。「ぐるっと千葉」 にはBRUの記事を何度か載せていただいた。

  記事の喜びも覚めやらぬある日、ショッキングな出来事が待ち受けていた。その日、ぼくはリッカの家のテレビの前にいた。当時、若者に人気のあったTBSテレビの 「ぎんざNOW!」 を見るためだ。「ぎんざNOW!」 では毎週火曜日に 「フォーク&ロックコンテスト」 というコーナーがあり、何組かのアマチュアバンドが出演し、生演奏をしていた。ゲストのプロミュージシャンが審査員となり、その日を勝ち抜いたバンドがチャンピオン大会に出場できるといった、そんな内容の番組だったと思う。そのコーナーがこの日をもって突然打ち切りになってしまったのだ。リッカとぼくは顔を見合わせたまま絶句してしまった。ぼくたちの次の目標は、この 「フォーク&ロックコンテスト」 への出場だった。友達に音質のいいカセットデッキを借りてリハーサルの音を録音し、そのテープと出演希望の手紙を2週間前に投函していたのだ。キンジもすぐにやってきた。ひとり、遠くに住むテツロウが駆けつけるのは無理だった。3人は 「これからどうしよう」 と落ち込んでしまった。他にもいろいろ手はありそうなものだが、決めたら一直線の高校生。この時ばかりはどうしようもなくただ下を向いていた。

  次の火曜日、ぼくたち3人は再びテレビの前にいた。『今度はどんなコーナーが始まるんだろう』 『バンドに関するコーナーでありますように…』 祈るような気持ちで見つめていた。そんなぼくたちを知ってか知らずか、司会者は言った。「今週から新しいコーナーが始まります。その名も “私はNo.1!”。さて、今週のNo.1は〜」 と言って、○○No.1だという何組かの人を紹介した。人気のあった司会者せんだみつおはすでに降板していた。せんだみつお後の司会者の名も、顔も、そして、その○○No.1の○○が何であったかもまったく覚えてはいない。ぼくたちは失望を隠せなかった。「なんだこれ?」 「あ〜あ…」 その後に出て来たのはため息だけだった。「どんなことでもかまいません、自分がNo.1だと思う人はどしどし応募してくださいね。お待ちしています!」司会者の声で番組は終わった。その時だった。突然ひらめいた!『どんなことでもいいって言ったよな!?』 そして、思わず口に出していた。「なぁ!バンドNo.1とかロックNo.1とかはどうだろう…」 一瞬の間の後にリッカとキンジは同時に叫んだ。「それだ!」 「やった!」 その日のうちにぼくたちは 「私はNo.1!」 出演希望と書いた手紙をポストに入れた。このNo.1が本当の意味での1番だとは誰も思わないだろうが、怖いもの知らずの高校生でも、さすがに 「バンドNo.1」 とは書けなかった。ただ、アピールは必要だ。手紙には結局 「ロックンロールNo.1」 と書いた。

  1週間後の10月10日(火)は体育の日で休日だった。ぼくは中学時代の友達の家にいた。その家にリッカからぼく宛に電話がかかってきた。あのころは携帯電話がなくてもどうにかなるものだった。「TBSから電話があった!」 「ええ〜〜!ホント!?」 TBSテレビからの電話はオーディションに来ないかというものだった。リッカは 「相談して連絡します」 と伝え、連絡先の電話番号と担当者の名前を聞いていた。次の日、ぼくは2時間目が終わった後の休み時間に学校の公衆電話から担当者に電話した。要点だけメモって電話を切った。「10月14日(土) 千代田線の赤坂駅 TBSテレビの玄関で 「私はNo.1!」 のオーディションに来た旨を伝える 別館6館Fリハ室 16:00まで テープ持参」 『やった!とりあえず、オーディションは確実に受けられる!』 ぼくはすぐにテツロウに伝えた。テツロウはちょっと顔を紅潮させた。

  オーディションまで4日間しかない。連日の練習が始まった。12日にはみんなでビートルズ日本公演のライブ映像を観た。70年代、バンドの映像は貴重だった。DVDはおろかVHSやベータもほとんど普及してない時代だ。テレビで時々放映される映像以外に海外のバンドの映像を目にすることはなかった。どこで観たのかは覚えていないが、ビデオなんて誰も持っていなかったからテレビ番組だったと思うが定かではない。ポール・マッカートニーのボーカルマイクがグラグラと緩んでいて、左右に傾いた。ベースを弾きながら何度もマイクを口元にもって来るポールが可哀想だったが、生演奏の映像は刺激的だった。みんな感動していた。オーディション前にビートルズのライブを観たのはタイムリーだった。バンドの士気は高まった。

  いよいよ、土曜日がやってきた。ぼくたちだけで赤坂のような都会に行くのは初めてだった。4人は学校が終わると制服のままで総武本線に乗った。楽器は必要なかった。赤坂に近付くにつれ、いよいよだという緊張感が高まった。『どれぐらいの人が来るんだろう』 『どんなことをするんだろう』 オーディションの様子なんて材料が少なすぎて想像すらできない。想像できないところに向かう時ほど不安なことはない。想像できないということは、予想も予測もできないということだ。予知や予見の能力なんて誰にもなかった。このときばかりは予期や予感なんてものにも縁がなかった。ただ、真っ暗な洞穴の中を灯りなしで歩いて行くような気分に襲われていた。

  ぼくのカバンの中にはリハーサルを録音したカセットテープと CHILD FAN NOTE が入っていた。CHILD FAN NOTE と書かれた大学ノートは今でも手元にある。このノートにはCHILDを応援してくれていた人たちの名前がびっしりと書き連ねられている。成東高校、匝瑳高校はもちろんのこと、東金高校、東金商業、東総工業、銚子西高、敬愛高校、横芝敬愛、九十九高校、千葉工業高校、白里高校、松尾高校等、近隣の高校の生徒、数百人の名前、年齢、電話番号が書かれている。このノートの9割を占めた女子高校生のパワーがCHILDのオーディションでの苦境を救ってくれた。 (つづく)

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