ノリオはしっかりとした足取りで部長の元へと向かった。迷いのない澄んだ瞳には覚悟さえ宿っている。気構えひとつで、心の持ち様ひとつで、人はこれほどまでに強くなれるのだ。ホソダ部長の席の前に立つと 「部長、お呼びですか」 ノリオは無心で声をかけた。清々しく張りのある声に迷いはない。うずくまりかげんで痛みに耐えていたホソダ部長は、ハッとして顔を上げた。まっすぐな眼で自分を見つめるノリオの表情には、エネルギーが満ちていた。ホソダ部長は一瞬にしてノリオの眩しさに惹きこまれた。

  人間が発する “気” には不思議な力がある。いや、人間だけではない。他の動物にも、言ってしまえば、植物にも “気” や “オーラ” と呼ばれる目に見えないエネルギーが存在する。その昔、剣の達人や一流の忍者は “気” を自由に操ることができたという。今でも、武道の達人の中には、それに似たような力を具(そな)えた人もいるらしいが、そんな人たちの技を実際に目にしたことはないから、うまく説明することはできない。ただ、我々日本人の心のどこかに、それらを信ずる根拠のない確信のようなものが存在していることは疑いない。もともと “気配” や “殺気” を感ずる能力は、動物が生きるために身に付け、発達させてきた本能のひとつなのだ。また、“気” はその人の、“雰囲気” や “佇まい” にも色濃く反映され、強い “気” や “意識” は “念” という力で他人に影響を及ぼすことさえあると言われている。“気” とは “生のエネルギー” と言い換えてもいいようなものなのだろう。

  ホソダ部長はノリオのプラスのパワーに包まれた。単に意識がノリオに向けられ、痛み止めが効き始めた、と言ってしまえばそれまでだが、ノリオの直向(ひたむき)なパワーは、ホソダ部長の歯の痛みさえ和らげてしまった。「おぉ、ノリオか。スペインだ!」 訳の分からぬ “間” に慌てたホソダ部長の口からは、いきなり核心部分だけが突いて出た。「スペイン?」 ノリオには何のことだかまったく理解できない。ただ、部長のにこやかな表情からして、呼ばれた理由が、自分自身の進退にまつわる緊急事態でないことだけは理解できた。ノリオは、自分が問題を起こしたのでない、と分かった瞬間ホッとしたが、心の揺れは驚くほどに少なかった。そこには、あくまでも冷静な自分がいた。追い詰められた末に達した “無心の境地” の賜物だった。この場合、ことの大小は問題ではない。自分の心と向き合い、戦った結果なのだ。ここでは素直にノリオを誉めてやりたい。『どんな物事にでも、“無心” で立ち向かえば怖いものなどないのだな』 とノリオは人生で初めて、何かを体得したと思った。

  「ノリオ、喜べ!スペインだ、スペイン!」 唐突な意味不明な発言を恥じたホソダ部長が繰り返した。いや、言い直したつもりだったのだが、前言に “喜べ” が加わっただけだ。ここにも、不意を突かれて舞い上がってしまった人間の典型があった。ノリオは部長が3度繰り返したスペインという言葉だけは理解できた。ノリオの頭の中で、スペインという言葉から連想される言葉が駆け巡った。駆け巡ったと言ってもレアル・マドリッド、フランメンコ、闘牛、ピカソぐらいのものだ。まったく恥ずかしい話だが、ノリオを笑ってばかりはいられない。日本人が持つスペインのイメージといえば、一般的にはこれくらいのものだろう。ノリオは苦笑した。『これじゃ、富士山、芸者、寿司、相撲と変わらないな…』

  その時、近くの席でふたりの不自然な様子を見守っていたヨウヘイが、痺れを切らして割って入った。「部長、それじゃ何のことだか、分かりませんよ」 ときに、第三者が重要な役目を果たす。ヨウヘイの出現で我に返ったホソダ部長は、急に落ち着きを取り戻した。『何をやってんだ、俺は…』 ホソダ部長は、ウウン…と軽く咳払いをしてから、改めてノリオを呼んだ経緯を話し始めた。

  話の概要はこうだ。ノリオが勤務する会社が、初めて映画に出資することになった。社内で8人からなる特別チームが作られることとなり、ノリオがそのメンバーの一人に選ばれたのだった。責任者にはイマイ副社長が就き、ホソダ部長がその下で実質の指揮を執る。もちろん、ヨウヘイもメンバーの一人だ。その映画はスペインのバルセロナで海外ロケを行うことになっており、特別チームの中から2名が会社の代表としてロケに帯同することになった。その代表にヨウヘイとノリオが指名されたのだ。若手のリーダー格であるヨウヘイが選ばれたのは妥当だと言えたが、ノリオの選出は大抜擢だった。

  「ほ、本当ですか?」 ことの真相があきらかになるにつれて、ノリオの顔が紅潮してきた。いつまでも平常心という訳にはいかない。いや、この場合、話を聞いて興奮しない方がおかしい。こんな時は、思い切り喜ぶべきなのだ。(※いやぁ…それにしても人間の感情とは何と難しいものか…) それでもノリオには、まだ信じられない。「オレで…オレでいいんですか?」 「いいも何も、お前に決まったんだ。しっかりとやってこい」 ホソダ部長は自分の手柄のように喜んでくれている。ノリオはその気持ちが何よりもうれしかった。そして、うれしいニュースを持って、ノリオを呼びに来てくれたヨウヘイの笑顔を疑ってしまったことを心の中で詫びた。その時、ホソダ部長の携帯電話が鳴った。「詳しいことは明日だ」 ホソダ部長はいつものように闊達に指示を出し始めた。

  「ノリオ、スペイン語の挨拶、何て言うか知ってるか?」 ヨウヘイが言った。ノリオが知っているスペイン語は、ありがとうを意味するグラシアスだけだった。「知らないな、何て言うの?」 ノリオの返事を待ってか待たぬか、ヨウヘイが言った。「こう言うんだよ」 ヨウヘイは立ち止まり、ノリオに相対した。そして、おもむろに手を挙げて叫んだ。

  「オラ!」 (つづく)

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