清水の舞台から飛び降りるとは正(まさ)にこのことだった。何かをやらなくてはならないという気持ちと、何をどうしたらいいのか分からないという気持ちとが、ごちゃ混ぜになりながらの見切り発車だった。賽は投げられてしまった。やるしかない。

  テツロウがイントロを 『ジャジャジャジャ・ジャジャジャジャ…』 と始めた。キャロルの「ヘイ・タクシー」だ。歌はともかく、楽器の音も口で表現するしかない。4人の声がすべてだった。ぼくたちはそれぞれの演奏パートを、口三味線で始めるしかなかった。リッカが2小節目の3、4拍目に 『スタタタ』 と2拍のフィルインを入れた。フィルインと同時にぼくは歌い出した。『ここで、タクシーさがぁ〜しぃ、早く彼女にホ〜ミィタァイ…』 3小節目からはキンジのギターも入ってくる。『ススッチャ・スッチャッチャ』 目には見えないが、それぞれの手にはギターが、ベースが、スティックがしっかりと握られていた。リッカはスティックを振るだけではなく、右足でバスドラを踏むことも忘れなかった。ぼくは無我夢中で歌う。『君のつぁめなら、アッギヴュ・オゥマイラヴ〜』 歌の後ろでは3人の必死の演奏が続いている。『ジャガジャガ・ジャガジャガ』(テツロウ) 『ススッチャ・スッチャッチャ』(キンジ) 『ドドタタ・ドッタン』(リッカ)。歌に戻る。『君にあげるよ』 さあ、来た!テツロウのコーラスだ。テツロウがギターパートを止めて上3度でハモる。『ダイアモリン〜ダイアモンリィーグ〜』 決まった!続いて4人でのハモりだ。声を揃えろ!『アーイビーン・ウェイティ〜ン・フォ〜アタークシィ』 いいぞ!これもばっちりだ!『アイム・ゴーインホォーム…』 ぼくが1番の最後の言葉を、落とし気味の声で歌うとキメが待っている。『スチャッ・チャッ・チャッ』 4人の声は揃い、ビートの裏も決まった!

  必死で歌い、演奏するぼくたちの前で4人の審査員は表情も変えずに、冷めた視線を送り続けている。腕を組んだままの人、ボールペンを指で玩(もてあそ)ぶ人、はっきり言って、反応は良くない。どうしたらいいんだ…。『作りたてぇのタキシードォ、胸に付けてる赤いバラ…』 2番が終わる頃には、次第に慣れてきたのだが、言うならば、ただ、演奏と歌を口ずさみ、楽器を演奏している振りをしているだけだ。どうにかしなければならない…。ギターソロの場面に突入した。キンジがソロのフレーズを口ずさむ。その時だった。何を思ったのか、突然テツロウが横たわった。審査員の何人かが初めて反応を見せ、身を乗り出した。その変化を見逃さなかったテツロウは床に背を付けたまま、転げ回りながらギターを弾いた。我武者羅(がむしゃら)に暴れる玉砕戦法だった。間奏が終わると、「はーい、OKです。ありがとう。」 ぼくらの、一世一代の怪演はアシスタントの声に遮られた。

  最近はエアーギターと呼ばれる表現が知られている。CDの音に合わせてあたかも実際に演奏しているような振りをして、その完成度や本物らしさを競うのだ。世界大会もあるというからびっくりしてしまう。実際にギターを持つわけではないから、弾けなくてもいい。ギターを弾いている演技をするのだ。本物の音をバックに演ずるのだから、ジミ・ヘンドリックスやジミー・ペイジにもなりきれる。だが、ぼくたちは音までも演じきった。1978年にエアーギターの上を行っていたのだ。

  この時、ぼくたちが要求されていたのは、普通のバンドとは違う 「ロックンロールNo.1」 としてのサムシィングだった。局側は“変わった人” “めずらしい人” を求めていたのだ。「う……ん」 責任者らしき人が唸っている。彼も、ぼくたちをどう評価していいのか、悩んでいるらしい。テツロウの咄嗟(とっさ)の機転だけが救いだった。そんな時、アシスタントが 「これを」 と言って彼に CHILD FAN NOTE を手渡した。ペラペラとしばらくノートを捲(めく)っていた責任者らしき人は、「ここに書いてあるのはみんなCHILDのファンなの?ずいぶんたくさんいるんだな…」 結果から言うと、ひとりひとりの手で書かれた名前や学校名、そして表紙の裏や欄外に書かれた応援メッセージが、最後の一押しをしてくれたのだった。


  すべてのオーディションが終わると、机の4人は審査のために席を外した。その間、ぼくたちは放心したように黙っていた。手ごたえがあったのか、なかったのかも判断しにくいオーディションだった。ライバルという程のライバルはいなかったが、こんなことがあった。ぼくたちの他にも、高校生の応募者がいた。「腹踊りNo.1」 で申し込んできていたふてぶてしいふたり組だ。太っている人とやせている人、対照的なふたりが、腹中に大きな顔の絵を描いて、ロックンロールに合わせて踊る、という触れ込みだった。彼らも音楽なしで、腹踊りをさせられていた。演技後の質疑応答で、審査員から 『当日、音楽はどうするの?』 と聞かれ困っている彼らに、ぼくが助け舟を出した。「あのう…ぼくたちでよかったら演奏しますけど」 「…」 突然の申し出に、腹踊りのふたりは喜色ばみ、審査員たちは、なるほど、それならいけるかもしれないな、と合点(がてん)のいった表情を浮かべた。

  「では、発表します」 10分ほど待った後、3組の合格者が発表された。CHILDは見事に合格した。責任者は 「最後にやったように寝転んだり、跳ね回ったり当日は派手にやってくれないと困るよ」 と強く言った。やはり、テツロウの捨て身の戦法が功を奏したのだ。当然のように 「はい!」 と皆で声をそろえた。他の合格者は、腹踊りのふたり組と…もう1組は忘れてしまった。とにかく3組が次週のぎんざNOW!に出演することになった。腹踊りのふたりのために、ぼくたちはクールスの 『紫のハイウェイ』 を演奏することを約束した。不合格の参加者たちは、下を向き、ぞろぞろと帰途についたが、ひとり胸を張り、堂々と挨拶をして帰った人がいた。「ありがとうございました!」 と大きな声を部屋中に響かせたのは、しじみ売りの真似をしたお姉さんだった。彼女は清々しささえ湛(たた)え、やりきった人のみが持つ満足感を浮かべながら帰っていった。


  CHILDが合格した理由はいくつかある。このいくつかが絡み合って、テレビ出演を果たすことになったのだ。

ひとつ…リッカが打ち合わせもなしに、思い切ってカウントを始めたこと。この判断は的確だった。たとえ、どんな結末が待っていようと、何もしないで不合格という惨めな結果だけはごめんだった。リッカの必死のカウントでぼくたちは改めてひとつになれた。

ひとつ…テツロウの機転。もし、普通にジャガジャガと終わっていたとしたら…。候補にさえ残らなかったかもしれない。

ひとつ…CHILD FAN NOTE の存在。ファンの人たちの想いが手助けしてくれたのは間違いない。

ひとつ…ロックを必要とする合格者が他にもいたこと。腹踊りのふたりがいたこともプラスに働いた。今のように音を簡単には持ち歩けなかった時代だ。カセットテープのウォークマンさえ、まだ存在していなかった。(※ウォークマンは1979年7月1日に発売された。)

ひとつ…同じ日に 「SHOT GUN」 の出演が決まっていたこと。ぼくたちはこのプロのバンドの機材を使わせてもらうことになった。当時は楽器を銀座まで運ぶことは不可能に近かった。テレビ局側としても、楽器をぼくたちのためにわざわざ用意することはできなかっただろう。


  ぼくたちは帰りの電車の中でどんな話をしたのだろうか。記憶にはないから、想像するしかないが、きっと、話は弾んだことだろう。夢心地だったことだろう。ただ明日だけを見つめていたころの話だ。いまだに、実際にテレビ出演した日のことよりも、この日の出来事の方が強く心に残っている。リッカのカウントとじじみ売りの声が、今も心に響いている。 (つづく)

Copyright(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top