スペイン行きの話を聞いた日、ノリオは、仕事がまったく手に付かなかった。午後からどんな仕事をしたのか、何をやったのか、ということさえまったく覚えていないという有様だった。ノリオの会社も、他のあらゆる集団や組織と同じように、恋愛と人事に関する話が伝わるのは早かった。ノリオ渡西の話は、あっという間に社内を駆け巡った。仲のいい社員が、お祝いを言いに来たり、冷やかしに来たり…、この日の午後、ノリオの席の周りでは、お祝いムードが途切れることはなかった。普段、何事にも謙虚なノリオは、誰からも好意の目で見られていたから、嫉妬ややっかみはなかったと言ってもいい。ノリオは、なるべく感情を抑えようと平静を装ってはいたのだが、高潮した顔色までは変えることはできなかった。それでも、帰宅する頃になると、いくらか落ち着きを取り戻し、少しは状況を冷静に捉えられるようになっていた。

  『パスポート、だいじょうぶかな!』 帰りの電車の中で、ノリオは急に思い立った。『パスポートを作るには、かなりの時間が必要とされたはずだ。確認しないとまずい。パスポートが間に合わなくて行けなくなった、なんて事になったら、オレは笑いものだぞ。そんなの絶対に嫌だ。』 ここ数年、ノリオはパスポートの事など、思い出す必要のない毎日を送っていた。前回、パスポートを使ったのは、4年前にイギリス旅行をした時だ。『確か、あの時は、あと何年かはだいじょうぶだって確認したはずだから、期限切れしているか、ギリギリ間に合うかのどちらかだな』 ノリオのおぼろげな記憶は、パスポートの期限が切れている可能性が高い、という事を示していた。

  4月は目前に控えていた。スペインへは、4月15日に発つことになっているから、すぐに申請しても、パスポートを手にするまでの猶予は、2週間ちょっとしかない。ヨウヘイの話では、ノリオの会社の人間が、スペインロケに参加する、と決まったのはつい最近のことらしいが、スペインロケを行うこと自体は早くから決まっていた。出発が4月中旬に定められていたのは、航空運賃が上昇するゴールデンウイークを避けようというのが大きな理由らしかった。


  ノリオは、家に帰るとすぐにパスポートを確認した。案の定、期限は半年前に切れていた。新しいパスポートを申請しなければならない。ノリオはすぐにパソコンを開き、申請に必要なものをチェックし始めた。一般旅券発給申請書1通、戸籍謄本又は抄本1通、住民票の写し1通、写真1葉、未使用の郵便はがき、本人確認のための書類、期限切れのパスポート、それから、10年有効のパスポートの場合、東京都収入証紙2,000円、収入印紙14,000円、合計16,000円も必要だ。幸いなことに必要な日数は土日、祝日、祭日を除いて6日と書いてあった。ノリオは心底ホッとした。本当は最低でも2週間ぐらいはかかるのでは、と危惧していたのだ。だが、安心している余裕はない。申請書と謄本、住民票の写し、写真、この4点はすぐに揃えなければならない。市役所は朝8時30分から開いている。新宿、都庁近くにある東京都旅券課は9時からだ。ノリオはホソダ部長の携帯を鳴らし、正直に、明日の朝、出社前に市役所と旅券課に必要書類をもらいに行きたい、という旨を伝えた。部長のOKをもらうと、ノリオは急に眠くなった。


  市役所も旅券課も思ったより、ずっと空いていた。ノリオの住むスミヨイ市は住民基本台帳ネットワークシステムに参加しているため、住民票の写しは必要ないということだった。旅券課でも、すぐに申請書を受け取ることができた。時間は大幅に短縮できた。『写真も撮ってしまおう』 ノリオの会社の近くにある写真屋では、パスポート用と伝えるだけでよかった。パスポート申請用写真の規格が変更されていることも当然理解していた。写真の規格変更は、平成18年3月20日より、新しいタイプのパスポート 「IC旅券」 が導入されたことに伴って行われた。IC旅券では、組み込まれたICチップに申請用写真から取り込んだ顔画像が記録される。その画像を装置で読み込んで本人確認をすることになるため、写真の規格も国際基準に合わせようということになったのだ。これまでの規格と比べると、顔の縦の長さ(頭頂から顎までの距離)が少し長くなった。その写真の規定だが、ノリオにとってはどう考えても当たり前すぎて説明するには及ばないと思えることまで、事細かに書いてある。ここまで、徹底しないといけないのだろうか、ノリオは改めて読み返してみた。

 1. 申請者本人のみを撮影したもの

 2. 6カ月以内に撮影したもの

 3. 正面、無帽、無背景

 4. 縦 45ミリメートル×横 35ミリメートル(ふちなし)

 5. カラーでも白黒でも可

 6. 鮮明であること(焦点が合っていること)

 7. 明るさやコントラストが適切であること

 8. 影のないもの

 9. 背景と人物の境目がわかりにくくないもの

 10.メガネのレンズに光りが反射していないもの

 11.平常の顔貌と著しく異ならないもの(例えば、口を開き歯が必要以上に見えているものは不可)

 12.サングラス、マスク及び前髪などが目を隠すなど顔が確認しにくくないもの

 13.ヘアバンドなどで前髪を覆っていないもの

 14.変色していないもの、傷や汚れのないもの

 15.デジタル写真の場合、ジャギー(階段状のギザギザ模様)がないもの

 16.デジタル写真の場合、写真専用紙等を使用し、画質が適切であること

  一読すると笑ってしまうものもあるが、よく考えると要点がしっかりと書かれている。パスポートを知らなかった人や、見たことのなかった人にもよく分かるように書かれているのだ。ノリオたち戦後生まれの日本人のほとんどは、パスポートというものを知っている。だから、パスポートや免許証に載っている写真がどういうものか理解しているが、もしかしたら、知らない人だっているかもしれないのだ。だが、今の時代、たとえ何も分からなくても、いざ必要となれば、写真屋に行って 「パスポート用の写真をお願いします」 と伝えればいい。そうすれば、写真の大きさなんて知らなくても済んでしまう。無人の証明写真機も同様だ。「パスポート」 というボタンを押すだけだ。数分待てば上記の16項目にきっちりと当てはまった写真ができてくる。

  ノリオは考えながらハッとした。それでも、中には、自分自身で写真を撮りたいと思う人や、どこで撮ったらいいのか分からないという人がいるに違いないのだ。国や自治体はあらゆる事に対して…、ここが大事だ。…あるゆる事において、このような少数の人たちにも、いや、すべての国民が、理解できるような説明をしなければならない。これは大変なことだ。十人十色、人それぞれだ。『当たり前のことなのかもしれないけど、みんなが忘れかけていることなんじゃないかな』 と、ノリオは思った。普段の生活が、いかに多くの先入観やイメージによって営まれているのか…、怖ささえ感じてしまう。先入観や印象は固定観念に通ずる。これらは厄介なもので、時には勘違いや争いをも生み出してしまう。個々を尊重し、多様性を大切にすることは、他人への思いやり、弱者への労(いた)わりに繋がっている。先入観に囚われたままの心は、柔軟性を失い、知らぬ間に不寛容な精神を抱(いだ)くようになってしまう。そして、それは、結果として他者の排斥へと繋がっていくのだ。これらの問題は、長い年月をかけて形作られてきたものが多い。今も、世界のあちこちで起こっている紛争の何割かは、このような先入観や固定観念によって引き起こされたものなのだ。


  『考えるきっかけは、どんな所にも転がっているんだな。たかが、スペインに行けるってだけで、浮ついていた自分が恥ずかしい』 ノリオは、気を引き締めなければと思った。10日後、ノリオは新しいパスポートをしっかりと握りしめた。 (つづく)

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