「2008年も残りわずかとなってしまった…」 「今年も、もう終わりだ…」 「1年があっという間だ…」 12月になると、このような声が、あちらこちらから聞こえてくる。これら、12月の常套句でよく使われる
「…となってしまった」 とか 「…もう終わりだ」 という表現には、あきらかに諦め感や無念の気持ちが含まれている。果して、我々は、いったい何に対して、名残の念を持つのだろうか。こんなこと、普段は意識もしないし、考えもしない。だからこそ、その答えが楽しみにも思えるのだが、実際に考えてみても、現実的な建前や潜在的な意識が混在していて、これだ、という明確な答えは見つかりそうにない。
多くの人は 『目標を達成できなかった』 とか、『計画通りにいかなかった』 と答えるだろう。このような思いは、ある種の建前で、実際にそう感じている人は、意外に少ないように思える。そうではなくて、心の中にある何かが言わせるもの、言わば、本能のつぶやきのようなものが、あるような気がしてならない。これは、あくまでも憶測だが、人は、心のどこかに“区切られた時間”に対する愛情のようなものを持っていて、その期間を過ごせるのがあとわずかだ、と悟ったときに寂莫感がこみ上げてくるのではないだろうか。
更に考えると、『今年が終わる』→『時間が過ぎていく』→『年老いていく』→『また、死に少し近付いてしまった』 というように、死に対する不安のようなものが、無意識のうちに
「残りわずか」 と言わせているのかもしれない。ただ、人間は、本当に幸せにできていて、2009年になったら 「新年おめでとう!」 「今年もがんばろう!」
と、とてつもなく前向きになれる。2009年を迎えても 『あ〜、2008年が終わってしまった』 『もう、2008年は来ないなあ…』 などと、既に過去となってしまった2008年を懐かしむ人はほとんどいないはずだ。“時”には何人(なんぴと)も抗(あらが)えない。そして、我々は、この絶対的な存在である“時”との付き合い方を探る旅をしている、と言っても過言ではない。
108編目のエッセイは、2008年12月20日に発表となる。“年末”と“108”、このふたつのキーワードから連想されるのは、除夜の鐘だ。除夜とは大晦日のこと。毎月の最終日を晦日(みそか)というのだが、年内で最後の晦日、ということで大晦日と言われるようになった。「九十九の葉」
でも触れたが、もともと“みそ”は“三十”という意味であり、“みそか”は30日を表した。(※実際には晦日が29日になることもあった。)現在は28日や31日も含めて、月の終わりの日のことを晦日と呼ぶ。大晦日は大つごもりとも言う。これは月隠(つきごもり)が転じたものだ。月隠は文字通り、月が隠れる日という意味だ。月は太陰暦の15日に満月となるが、その後欠け始め30日に見えなくなるため、月の最後の日を月隠と言うようになった。
鐘が撞(つ)かれるのは仏教の寺院だ。仏教の教義によると、108回撞くのは108の煩悩を滅するためと言われるが、実際には時代、部派、教派、宗派によって数はまちまちだそうだ。代表的な数である108となった理由の幾つかを紹介しよう。
1.仏教では 「眼(げん)」・「耳(に)」・「鼻(び)」・「舌(ぜつ)」・「身(しん)」・「意(い)」 という6つの感覚器官が、人間に迷いや欲望をもたらす根源とされており、これを6根と呼んでいる。この6根のそれぞれに、気持ちがよい
「好」、気持ちが悪い 「悪」、どうでもよい 「平」という3種類の感じ方があり、6根に掛けると18になる。この18類にはそれぞれにきれい 「浄」、きたない
「染」という2種類の状態があり、これも掛けて36類。この36類に 「前世」 「今世」 「来世」 という時間軸を掛け合わせて108になるという説。
2.1年を構成する月の 「12」、二十四節気の 「24」、七十二候の 「72」 の数を足した数が108だという説。
3.四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108という説。
どれも、うまい語呂合わせのような気もするが、ぼくは嫌いではない。それぞれの数字には意味があり、力があると思うから、108という数字にも何かが宿っているのだろう。鐘は旧年のうちに107回撞かれ、残りの1回は新年に撞かれる。本来、108の鐘は、除夜だけでなく毎日、朝夕撞かれるべきものだそうだ。現在では、普段は18回に略されているらしい。
煩悩は自己中心の考え、そして、それに基づく事物への執着から生ずるというから、ぼくたちは本当に多くの煩悩を抱えている、ということだけは間違いない。ちなみに、数珠も108の珠からなっている。
108で、もうひとつ思いつくのが水滸伝だ。水滸伝は中国宋代の革命の物語。病んだ国を立て直そうと、立ち上がった108人の好漢を中心に話は進む。特に、北方謙三版がすごい!文庫本で19巻(読本を加えると20巻)、読み応えがある。この本はぜひ、お勧めしたい。特に男性、中でも、若い人たちには必ず、読んでもらいたい。この物語を貫くのは男の生き方、そして、死に方だ。特に、英雄たちの死にっぷりがすごい。「死に方を教えてくれる物語」
とさえ、言い切ってしまってもいい。誤解を招くといけないので記しておくが、決して、自殺の方法を教えてくれる本ではない。生きて、生きて、生き抜いて、信念のために死んでいく漢たちの物語なのだ。そのかっこよさと言ったら、身震いするほどだ。この北方水滸は1999年11月から5年10ヶ月にわたって
『小説すばる』 に連載された。ぼくは、小説すばるも、単行本も読まなかった。ひたすら文庫本になるのを待った。そして、2006年10月に発行が開始されてからは、1年と8ヶ月、毎月至福の時を持った。現在は、続編の
「楊令伝」 が連載中だ。あと、何年待てばいいのか…。もしかしたら、図書館で借りてしまうかもしれないが、やはり、待ちたい。それが、この物語に対するぼくの儀式でもあるからだ。
最後に、もうひとつ。XF-108、Bf108、キ108…これらは、どれも飛行機の名前だ。XF-108はアメリカ空軍の戦闘機、Bf108は戦時中、ドイツやイギリスで連絡機、輸送機として使われた。そして、キ108は日本陸軍が試作した双発単座戦闘機だ。奇しくも、同じ108を背負った飛行機たち。人を殺す手助けをさせられた、これらの飛行機(※輸送機も厳密に言うとこれにあたる)は、パイロットと共にどんな気持ちで大空を飛んでいたのだろう。ぼくのエッセイにおいて、108の葉は二度と巡ってはこない。『1編1編、大事に書いていこう!』
こう思わずには、いられない。
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