さあ、いよいよ2009年が始まった。『今日からの365日をどのように過ごそうか』 誰もが、心を新たにしているに違いない。元日の澄み切った空気を思い切り吸い込み、新しい年の“気”を体中に漲(みなぎ)らせたい。更に前へ、前へ…。胸を張って、今年の12月31日を迎えたい。

  ぼくは、百八の葉で、新しい年を迎えてしまったら、過ぎ去った年のことを、どうのこうの言う人はいないだろうと書いた。だが、ぼく自身、2008年に感じたことで、どうしても伝えておきたいことがあった。いや、伝えたいというのはおこがましい。国民のほとんどが狂喜したであろうあの感動を、もう一度、この場を借りて分かち合いたいのだ。その出来事を振り返り、胸に刻み込むことが、2009年の旅立ちに、また、新年の第一声に、相応(ふさわ)しいと思えてならないからだ。諦めないことのすごさを、ある男が、そして、その男を慕う後輩たちが教えてくれた。


  2008年9月23日、ぼくは川崎市にある等々力陸上競技場にいた。陸上短距離界のエース、朝原宣治の最後の勇姿を見るためだ。『この日を逃したら、絶対に後悔する』 ぼくは、心の命ずるままに、この日のスケジュールをキープした。奇蹟を起こした男のラストランを、この目で見届けたかったのだ。彼は、この日をラストランと決めていた。2008年夏に行われた北京オリンピックでは、感動的な出来事がたくさんあった。ここで、それらをひとつひとつ振り返ることはしないが、その中でも、男子400mリレーにおける、日本陸上短距離界初のオリンピックメダルの獲得は、特別なものだった。真の奇蹟としか言いようのないものだったからだ。

  2007年、大阪で行われた世界選手権の男子400mリレーで、日本チームは世界の強豪国と競い、僅差で5位となった。それは、見事な戦いだった。5位であっても、称えられるような結果だったと言っていい。4人の選手たちの表情も晴れやかだった。この大会で引退するだろうと思われていた朝原選手には、惜しみない拍手が送られた。その声援は、彼が経験したことのないものだったに違いない。国民は彼の16年間の努力を知っていた。翌日の新聞には 『あと一歩でメダルに届くかもしれない』 という言葉が踊ったが、願望の響きが大きく漂っていたのは否めない。世界のトップとの実力差は誰の目にも明かだったのだ。僅差だったとはいえ、0.01秒を争う短距離走においての50センチは遠い。陸上の短距離種目100mや200mは、日本人だけでなく、他のアジア人や白人にとっても不利な種目だ。筋肉や骨格の質量で勝る黒人以外の人種は、今や、決勝に残ることさえ難しい。世界選手権の数日後、朝原選手は記者会見を行った。当初は、引退会見になるだろうと思われていたのだが、彼の口から出たのは、現役続行の言葉だった。

  100mや200mの短距離走は、技術が介入し難(にく)いスポーツだ。肉体以外の要素といえば、天候とシューズぐらいしかない。しかも、天候は運に頼るしかないし、シューズの改良にも限りがある。フォームを見直すとしても、今や革新的な変化は望むべくもない。単純に早く走った者が勝ちなのだ。たとえば、野球やサッカーのような球技は、ボールという道具を使うため、ボールを扱うという意味においての技術で、体力を補うことができる。水泳では、最近、水着が話題になったが、水という媒体の中を移動するための技術にはまだまだ改良の余地がある。相手と接触することによって勝負が決まる格闘技の場合は、腕力以外の駆け引きや技の優劣によって、勝敗が左右される。更に、同じ陸上でも、砲丸投げには砲丸、槍投げには槍、という道具を扱う技術が必要とされ、マラソンでは走る技術以外に、42.195キロという距離が勝負を決める要素として大きくものをいう。

  400mリレーも同じだ。100mや200mの個人競技とは違って、リレーにはバトンパスという要素があり、これには技術が必要となる。日本チームが付け込めるのは、これだけだった。海外のほとんどのチームは、オーバーハンドパスを採用している。手を伸ばして次走者にバトンを渡すオーバーハンドパスは、バトンミスを犯す危険は高いものの、距離を稼げるという利点があるからだ。しかし、日本チームは次走者に接近しなければならないため不利とされるアンダーパスで勝負に出た。アンダーパスは走者が振り返ったり、手を伸ばしたりする必要がないため、バトンゾーンでスピードが落ちにくいという利点がある。そこに賭けたのだ。しかし、オーバーハンドパス以上に走者同士の息が合うことが必要とされる。日本チームは、パス練習のための合宿を行って北京オリンピックに臨んだ。チームメイトである塚原直貴選手(23歳)、末續慎吾選手(28歳)、高平慎士選手(24歳)にとって、朝原選手(36歳)は憧れの的だった。短距離の世界でただ一人、世界を相手に立ち向かってきた朝原選手の姿は若き後輩たちを奮い立たせていたのだ。3人は 『朝原先輩にメダルを獲らせたい』 その一念で戦おうとしていた。

  8月の北京、リレーの予選を前にして4人のコンディションは最悪だった。第1走者、塚原選手は、100m準決勝で左太ももを痛めてしまい、第2走者、末續選手は、200m1次予選敗退、まったく力が出し切れていなかった。第3走者、高平選手も、200m2次予選敗退、アンカーの朝原選手は、最後の100mで準決勝に残れず、落ち込んでいた。

  400mリレー予選で第1の奇蹟が起こった。日本が出場した予選第1組、塚原選手と末續選手は本来の調子には程遠く、第3走者の高平選手は8チーム中6番目で朝原選手に迫っていた。いよいよ最後のバトンパスだ。「ああ…ダメか」 日本人の誰もがそう思った時だった。なにやら先頭集団がもたついている!『…何かがおかしいぞ』 『ああ!!』 その瞬間、集団からトリニダード・トバゴのアンカーと朝原選手のふたりだけが飛び出していた。日本チームの前を行く5チームのうち4チームが、バトンパスに失敗したのだ。その中には、優勝候補のアメリカ、9秒台の選手を集めたナイジェリアも含まれていた。朝原選手は2位でゴールした。予選2組でも波乱が起こった。まるで、伝染したかのように最終コーナーで、メダル候補の2ヶ国がバトンのパスミスを犯し失格となったのだ。これもまた奇蹟なのか。他人のミスを奇蹟とは言いたくはないが、力を尽くしてきた一人の男のために、陸上の神様が粋な計らいをしたと考えてもいいのではないだろうか。日本は全体の3位!一気にメダル獲得が真実味を帯びてきた。

  千載一遇のチャンスとはこのことだ。『メダルを獲らせてあげたい』 心底、そう思った。だが、日本チームの4人に笑顔はない。後日談によると、コンディションの悪さと、メダル候補となったプレッシャーに押しつぶされそうになっていたというのだ。部屋で沈黙していた4人の前に現れたのは、世界選手権で2度、銅メダルを獲得したハードラー為末大選手だった。「伝説を作っちゃうのかな〜」 彼は冗談めかしてこう言った。4人の緊張は解けた。

  決勝当日、4人をサポートしていた補欠の斉藤仁志選手は言った。「このチームのサポートができてうれしかった」 4人が奮い立たない訳がない。スタート前、『いっちょう、かましてやるか』 塚原選手は不敵に笑っていた。末續選手は聖火を見つめ、高平選手は朝原選手にバトンを渡すことだけを考えていた。競技が始まった。塚原選手がものすごいスタートを切った!グングンと引き離し、バトンは末續選手へと渡った。末續選手もスピードが落ちない。『行ける!』 高平選手は、驚異的な記録で100mを制したジャマイカのウサイン・ボルト選手に抜かれても怯まない。見つめるのは朝原選手だけだ。バトンパスが決まった。「行け〜〜〜〜〜!!!!」 高平選手の雄叫びを背に朝原選手は駆けた。約10秒の間、朝原選手には初めての感覚が宿っていたという。走っていた間、まったく時を感じなかったというのだ。彼が、無の境地を体現した瞬間だった。

  朝原選手は3位でゴールした。「やった〜〜〜!!」 日本中で歓喜の声が、沸き上がった。『こんなことがあるのか…』 ぼくは、真の奇蹟を目の当たりにしたのだと思った。他の国が失敗したから獲れたメダルだ、と言う人もいただろう。だが、バトンパスも勝負のうちなのだ。ルールに則(のっと)って獲得した正真正銘の銅メダルなのだ。表彰式では普段の4人に戻っていた。ちょっと照れたような朝原選手の表情が忘れられない。

  等々力陸上競技場での100mには、オリンピックのメダリスト4人と補欠の斉藤選手が出場した。朝原選手の最後のレースに相応しい演出だ。だが、勝負は勝負、全員が持てる力を出し切った。超満員の観客は、朝原選手の最後の10秒間に酔った。ぼくもこのレースを目に焼き付けた。大会終了後、朝原選手の引退セレモニーが行われ、彼はゆっくりとグラウンドを一周した。真の男の姿は本当に美しかった。


  朝原選手は 「人間のトータルの大きさが、タイムや勝負に影響する」 と言っている。この言葉は重い。100m競技にも、『人間の大きさ』 という体力以外の要素が、あると言っているのだ。これは、他の競技における道具や技、あるいは、水や距離という第2の要素と同じように、人間力という名の技術が介入できるということを示している。奇蹟は人間力の賜物だ。どんなことに対してでも、諦めないという気持ちが人を成長させてくれる。朝原選手は、もし、最後のオリンピックでメダルが獲れていなかったとしても、等々力では同じ気持ちで走り、同じ顔でグラウンドを一周したことだろう。そして、ぼくもまた、同じ場所で同じ光景を見ていたに違いない。

  2008年の奇蹟は語り継がれるだろう。だが、結果としての奇蹟を称えるだけではなく、なぜ奇蹟は起こったのか、ということにも目を向けられる人間でありたい。新しい年を迎えた今、自分自身に、改めてこう言い聞かせている。

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