日本からスペイン行きの直行便はない。スペインへ行くには、ロンドンやパリ等の都市を経由し、マドリッドやバルセロナ行きの飛行機に乗り換えなければならない。『今どき、直行便がないなんて…』 ノリオにはいささか意外だった。『スペインが、それほど馴染みがない国とは思えないけど…』 彼が感じている現代社会のグローバルなイメージと、現実との間には少なからずギャップがあった。ギャップとは隔たり、食い違いのことだ。出発前に知ったこんな小さな真実にさえ戸惑ってしまうのだから、文化や習慣が違う他国においては、予想もつかないことが起こるのは当然だ。特に、他文化に慣れていない日本人が、頭の中で作り上げたイメージなどは、現地の風に触れるだけで一瞬にして吹き飛んでしまうだろう。ノリオは、スペイン滞在中にその中でも最たるもの、いや、想像をはるかに超えた重い現実を思い知ることになる。

  正午に成田を出発した飛行機は、現地時間の夕方にパリに到着、そこで2時間近く待って飛行機を乗り換え、マドリッドに着いた時には夜9時半を過ぎていた。16時間以上かかったことになる。足腰が重い。マドリッド・バラハス国際空港は1928年に開かれた空港で、2007年の乗降客数が世界10位というヨーロッパでも有数の空港だ。有名な建築家を数多く輩出している国だけあって、どことなく芸術的な趣(おもむき)が感じられる。ノリオたち一行はバスで市の中心部へと向かった。高速道路は日本のそれとはまったくイメージが違う。ノリオは、長旅で疲れていたから数えることはしなかったが、片道が6車線、いや、7車線、8車線もあるかと思われた。

  初めての朝、ノリオは引き込まれるように窓を開けた。「うわぁ!」 思わず声を上げるほどに美しい空だった。マドリッドの空は青い。空が青いのは当たり前だが、日本の空の色とはまったく違う。仏教で七宝にあげられる宝物の中で、唯一の青い宝石である瑠璃(るり)の色のように、あるいは、西洋でラピスラズリと呼ばれる青い鉱石の色のように、深く鮮やかな青なのだ。サッカーのイタリア代表ナショナルチームのユニホームの青を想像してもらうと分かりやすいかもしれない。


  スペインでのロケは短期間で行われる。マドリッドで1週間、バルセロナでも1週間、合わせて約2週間という超強行軍だ。50歳になった主人公が、若い頃生活したスペインでの思い出を語る場面があり、そこで使われるいくつかのシーンをマドリッドとバルセロナで撮影することになっていたのだ。マドリッドでの撮影は天候にも恵まれて順調に進み、予定通り1週間ですべてのシーンを撮り終えた。一行は日本の新幹線にあたるアヴェという列車でバルセロナへと向かった。この列車、爬虫類のような顔をしている。アヴェでは、ノリオたちが乗り込む一等車のみに食事が付いていた。ノリオは、これを密かに楽しみにしていたのだが、出てきたそれは飛行機のエコノミー席で出される機内食のようなもので、あっという間に食べ尽くしてしまった。大食漢のヨウヘイなどはまったく物足りない。彼は、持参のワインをごくごくと飲み干すと、あっという間に寝てしまった。

  窓からの景色は新鮮だった。見たことのない樹々が、不思議な色の土が、次々と通り過ぎて行く。ノリオは見慣れない景色を飽きずに堪能していたのだが、次第に景色よりも窓の方が気になり始めた。隅々まで掃除が行き届いていないのが分かってしまうのだ。虫の死骸がミイラ状になってこびり付いているのは見るに耐えない。『日本の公共の乗り物ではあり得ない』 ノリオは、改めて日本人の美意識の高さを感じた。そして、外国の素晴らしい点を見習うことも大切だが、良くない所を見て、日本を再確認することも意義あることだな、と思った。『どこを取っても新幹線の勝ちだな』 ノリオは一人、胸を張った。

  バルセロナでは、仕事が終わると、みんなでバルと言われる庶民的な小ぶりのレストランで食事をした。バルではタパスという小皿料理がメインになっており、店内はタパスを囲んで飲んだりおしゃべりをしている人たちでいつも賑やかだ。その雰囲気に惹かれてバルに通ったのだが、ノリオには肝心のタパスの味はどれもが今ひとつパッとしないように思えてならなかった。期待していたパエリアにしても、スペイン滞在中に3度ほど挑戦したのだが、とうとう 「美味い!」 と言えるものに出会うことはできなかった。店の前に張り出してある写真は実に美味そうなのだが、如何せん、味が濃い。しょっぱいのだ。それに、魚介類の生臭さが抜け切れていない。(※故意にそういう味付けにしているのかもしれないが…)魚料理も何度か注文してみたが、やはり口に合わなかった。大振りの魚を焼いたものが、丸ごと一匹出てくる。味付けは、ないに等しい。それぞれが、好きなように塩や胡椒を振って食べるのだろうが、繊細な魚料理を食べ慣れている日本人には辛い。それでも、箸を、いや、フォークを付けてみる。『う〜ん…』 身は大味で淡泊だ。秋刀魚や鰺の旨さを、味わい深さを知ってるノリオにしてみれば、味を語るのは論外だった。二口目はない。それに、丸ごとドン!では見た目にも食欲が失せてしまう。ノリオだけではない。ヨウヘイや仲間たちの口からも、美味いという声は聞こえてこなかった。こんなはずではなかったと思っても、味ばかりはどうしようもない。食べるものに関しても、やはり先入観と実際の味とのギャップは大きかった。日本で食べるパエリアは、やはり日本人向けに調理されているのだ、ということがはっきり分かった。『日本食が恋しい』 誰もがそう思い始めていた。

  バルセロナには、個性的な建物や建築物がいくつもある。その中でも最も有名なのがガウディの代表作、サグラダ・ファミリアだろう。1882年3月19日に起工式が行われた芸術の最高峰と謳(うた)われている建築物だ。2009年の今でも建築が続けられている。ノリオは、ある日の仕事前、ヨウヘイたち数人の仲間と連れ立って、サグラダ・ファミリアまで歩くことにした。道すがら、他のガウディの作品に見(まみ)えることもできる。バルセロナに来たからには、これらを見物しない訳にはいかない。 (つづく)

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