10月17日(火)が 「ぎんざNOW!」 の本番だった。TBSからオーディションに来ないかという連絡が入ったのが10日(火)、オーディションが14日(土)だったから、その間、わずか1週間しか経っていない。急場しのぎの感は否めないが、見切り発車的なコーナーだったし、番組自体も斜陽を迎えていたのは明らかだったから、仕方がなかったのだと思う。それでも、一世を風靡した 「ぎんざNOW!」 に出演するというのは大きな出来事だった。

  「ぎんざNOW!」 は、5時15分から6時までの番組だったが、この10月からは5時半〜6時に短縮されていた。出演当日、スタジオでの簡単なリハーサルがあったから、遅くとも3時頃までにはTBSに行ったはずだ。火曜日は平日だから、授業は普通にあったよなと、ふと疑問に思ったが何のことはない。幸運なことに、成東高校では10月16日、17日、18日の3日間が、2学期の中間テストだったのだ。中間テスト…この響き、何とも懐かしい。期末試験よりも比重は軽く思えたし、試験は午前中のみだったから、なんとなく得した気分になったものだ。このような理由で、テツロウとぼくは時間の問題を難なくクリアできたのだが、リッカとキンジはどうだったのだろうか。おぼろげな記憶しかないから、もし、違っていたら二人には申し訳ないが、彼ら二人は学校を早退したように思う。そして、後に、テレビ出演のために早退したことがばれて停学処分になったのではなかっただろうか。バンドのことしか頭になかったのだ。もし、ぼくとテツロウが同じ立場だったとしても、彼ら同様早退していたに違いない。

  ぼくとテツロウ、そして同行することになった友達5、6人は横芝駅で、リッカとキンジが乗っている列車を待った。納戸(なんど)色と鳥の子色、絶妙なツートンカラーの列車がするするとやってきた。車内は空いていた。リッカとキンジの他に彼らの友達の顔も見える。ぼくたちは思ったよりも落ち着いていた。いや、実のところは緊張で引きつっていただけなのだ。列車は静かに千葉方面へと走り出した。


  リハーサルといってもアンプの使い方等を確認するだけだった。プロバンドSHOT GUNに使わせてもらった大きなベースアンプに圧倒され、つまみをどうしたらいいのかさえ分からない。赤いロゴが付いたアンプだった。今、思えばSUNN(サン)のアンプだったような気がするが、確かめようもない。SUNNは名機だったが、しばらくすると市場から消えてしまった。1987年にFENDERの傘下に入って1998年にSUNNの名で復活するが、何年かするとロゴはFENDERに変わり、SUNNの名は再び消えてしまった。


  いよいよ本番だ。緊張しない訳がないし、あがらない訳がない。司会者の声なんてまったく耳に入らなかった。リッカのカウントを合図に、ぼくたちはキャロルの 「ヘイ・タクシー」 を思い切り演奏し、歌った。飛んだり跳ねたりなんてことはせずに、普段着のまま演奏した。曲が終わると、コマーシャルに行くのだが、そこでキメの言葉がある。出演者が大袈裟に 「○○○No.1」 と叫ぶのだ。ぼくたちの場合は 「ロックンロール・No.1」 で応募したのだから当然 「ロックンロール・No.1〜〜!!」 と叫ばなくてはならない。ぼくの役目だった。いやはや、恥ずかしかったのなんのって、こんな台詞どう考えてもかっこよくなんて決められない。普段の威勢はどこに行ってしまったのか。切羽詰まったぼくの口からは、なぜか落ち着いた調子の声がこぼれ出た。「ぼくたち、ロックンロールNo.1…」 内容は間違ってはいない。だが、極めて普通に、そして、かなりまじめな口調で発してしまったのだ。まるで、ロッカーらしくない言い方だったが、ぼくにはそれが精一杯だった。テツロウに任せるべきだった…。今でも心底そう思う。一瞬の間をおいて大きな拍手が起こり、コマーシャルへと進んだ。ひとまずホッとしたが、出番はまだある。一組おいて、腹踊りの二人組のバックで演奏だ。2度目ということで慣れたのか、今度はリラックスして演奏することができた。クールスの曲を伸び伸びと演奏し、楽しむことすらできたのだ。

  放送は無事終了した。貴重な体験だった。何とも言えぬ安堵感が頭上から静かに降りてきて、足から地面へと抜けていった。帰り際、ぼくたちはたくさんの女子高校生に声をかけられた。腹踊りの二人を応援に来た彼らのクラスメイトたちだった。東京の高校生は大人びて見えたので、ちょっとドキドキしながら、二言、三言交わした。今だったら、携帯の番号やメールアドレスを交換したりするのだろうが、当時は連絡先といったら住所か自宅の電話番号しかない。それらを聞いたり、教えたりすることはなかった。ぼくたちは最終電車のことも考えて足早に駅へと急いだ。テストも、もう一日残っていた。


  テレビ出演の話は長い間、話題になった。田舎の高校生にはでき過ぎだったかもしれない。それぐらい特別な出来事だった。そのころ、ビデオデッキは一般にはほとんど普及していなかった。録音するにしても、ぼくたちの周りにはカセットデッキぐらいしかなかった。何日か後で、テレビの前に置いて録音してもらったカセットテープを聞いたが、決して満足できる演奏ではなかった。その後、リッカの友達の知り合いが放送を録画していたと聞いて旭にまで見に行ったが、照れくさいばかりだった。できるものなら、もう一度見てみたいものだが、あの時のビデオがあるのかないのか、誰が持っているのかさえ分からない。もし、出てきたらそれこそ奇蹟だ。


  このころ、CHILDに大きな問題が持ち上がった。練習場が使えなくなってしまうというのだ。約1年間、好きなときに好きなだけ使わせてもらっていた練習場だが、やはり 「うるさい!」 という苦情が多く寄せられていたらしい。リッカの親戚が防波堤となって守ってくれていたのだが、いよいよ守りきれなくなったというのだ。これはどうしようもないことだった。感謝こそすれ、これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。また一から練習場を探さなくてはならない。

  それぞれの進路の問題も持ち上がってきた。ぼくとテツロウは文系の大学に進むことを漠然と考えているだけだった。勉強はするが、バンド活動も続けるつもりだった。しかし、リッカの場合はもう少し深刻だった。彼は理系志望で、しかも医学部か薬学部かに進むつもりだった。どちらにしても、真剣に勉強に取り組まねばならない。いや、すぐに始めたとしても遅いぐらいだ。バンド活動は極めて難しくなる。更にショックなことに、キンジは進学せずに国鉄(現在のJR)に就職すると言うのだ。どこに赴任するかにもよるが、社会人になればこれまでのようにCHILDを続けるのは厳しい。それぞれの道が見えてきたと同時に、バンドの行方は不透明となった。

  これらの問題が持ち上がる前に、横芝駅前にあった喫茶店 『国際』 の店長からクリスマスにライブをやってくれないかと頼まれ、12月23日、24日の2日間、『国際』 でライブをすることになっていた。練習する場所がどうしても必要だった。店長に掛け合うと、開店前なら、店を練習場として使ってもいいということになった。助かった!時間に制約はあったものの、ぼくたちは練習を再開することができた。

  『第1期CHILDピリオド。一応、今日でひと段落ついた。1万円、始めて(※ここでも字が間違ってますね)得たお金。練習場はもう使えない。何だかとても悲しい、むなしい、つらい、ほんとに…。またいつかあの練習場で、もう一度みんなと歌い、演奏できる日が来るまで、勉強がんばりたい。リッカ、テツロウ、キンジ、そしてオレ、みんなのCHILD。CHILDは永遠のバンドだ。 12・24 PM11:20』

  これは、クリスマスイブの日の手帳に記された文章だ。第1期CHILDなんて言っているところは笑ってしまうが、バンド活動だけに集中できなくなってしまった悲しさが伝わってくる。CHILDは決して解散した訳ではないのだが、それぞれの進路に向かって歩き出さなくてはならない、という重い現実とも向き合わねばならなくなった。1979年、高校3年生になったぼくたちは、念願のMOTHERSでライブをした。そして、成東高校、匝瑳高校での学園祭ライブで有終の美を飾った。どちらの高校でもCHILDの演奏時間になると会場は超満員の観客で溢れた。それほど多くの人がCHILDを見に訪れたのだ。このころになると、ぼくたちはオリジナル曲も演奏するようになっていた。前出の雑誌 「フリータイムス千葉」 の人気投票でもCHILDは断トツ1位を続け、人気バンドとなっていたのだ。


  びっしりと書き込まれた1978年の手帳とは違って、1979年の手帳はまっさらだ。ほとんど何も書かれていない。1978年の手帳のおかげで、忘れかけていた当時の想いが蘇(よみがえ)り、17歳の自分と真正面から向き合うことができた。更に、こうして文字にできたことは本当に幸せなことだと思う。

  1978年の手帳の最後のページには以下のように記されている。大晦日の欄だ。このページの最上段にある12月31日の欄をはみ出し、一番下の1月6日の欄まで使って大きく書かれている。この日、ぼくはキンジに会って、将来のこと、バンドに対する気持ちを確認したらしい。17歳なりに、けじめを付けたのだと思う。

  『朝から少しだったけどおっ母さんの手伝いをして、夕がたキンジの家に行った。オレとしてはキンジの気持ちがよくわかった。この手帳も今日でおわり。この1年本当に貴重なことばかりだった。来年は今年よりずっといい年にするぞ!!』 (第一部 完)

  ※ 第二部では、高校卒業後のバンド活動を中心に書いていきます。九十九ボーイとの再会を楽しみにしていてください。

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