バルセロナでのロケも天候に恵まれ順調に進んだ。あとは、古いカフェでのシーンを残すのみとなった。ほぼ日程通りに運んでいた。几帳面なタキノ監督らしい進めようだ…、と言いたいところだが、帰りの飛行機のチケットは2ヶ月前から用意されていたと言うから、何が何でも決められた期間内に撮ってしまうしかなかったのだ。ノリオたちは制作の一端を担う会社の代表として帯同していたにもかかわらず、現場で何かをするということはなかった。ただ撮影を見守り続けることが仕事だった。ノリオにとっては、スペインの街並みはもちろんのこと、撮影そのものに参加するのも初めてのことだったから、目にするすべてが新鮮で興味深く思えたのだが、見ているだけというのも決して楽なことではない。ときにはスタッフを手伝って、荷物を運んだりしたにはしたが、基本的には現場では部外者の扱いだ。撮影の邪魔にならないようにと、居場所にさえ気を配らなければならなかった。

  撮影期間が短かったこともあって休みという休みはなかった。監督をはじめとするスタッフや役者陣の疲労には比べるべくもないが、ノリオたちにも相当の疲れが溜まっていた。バルセロナに入って5日も過ぎると、体験したことのないような疲労が体に重くのしかかるようになった。慣れない海外での生活には緊張が伴う。仕事以外でも、たとえば食事をするにしても、町を歩くにしてもそうだ。普段とは違う環境にいるということが、想像以上に神経をすり減らしていた。「カァッ〜ト〜!」 最後のシーンが終わると、大きな拍手が起こり、それぞれが固い握手を交わし歓びを分かち合った。「長かったなあ…」 「蕎麦喰いてえ〜」 ノリオたちも安堵の気持ちを隠さなかった。夜には関係者全員が集まってささやかな打ち上げが催されたが、深酒をする人は少なかった。それぞれが、挨拶もそこそこにホテルへと戻って行く。翌日に帰国することになっていたため、スタッフも役者もノリオたちも、皆、ホテルに帰って荷物をまとめなければならない。


  今回の旅でノリオが用意したのは、キャスター付きの小ぶりのスーツケースとリュック、それにウエストポーチだった。スーツケースは空港で荷物として預け、リュックとウエストポーチは機内に持ち込んだ。持ち込める荷物は、原則として一人ひとつだが、ウエストポーチはその大きさからか、手荷物として数えられることはない。もしかしたら、規則ではウエストポーチも手荷物扱いになっているのかもしれないが、この小さなバックを取り締まるほど厳しくないのだろう。リュックとウエストポーチは、身に付けても両手が自由に使えるという点でかなり便利だ。海外に出かける日本人には必需品と言ってもいい。特に、ウエストポーチは財布、携帯電話、パスポートに航空券、メモ用紙、筆記具、それにipod等、必要な小物をまとめて収められる。自分の体に直(じか)に付けているという安心感もある。ノリオは、荷物をゆっくりと確認しながらそれぞれのバックに詰めていった。すっかりと片付いたのは深夜2時だった。明朝の集合時間は10時、フロント前と決まっていた。もっとゆっくり寝ていたかったが、ホテルのチェックアウト・タイムが10時なので寝坊する訳にはいかなかった。ノリオはベッドに入った瞬間、眠りに落ちた。

  バルセロナ滞在最終日、午前10時近くになるとフロントには眠そうな日本人がぞろぞろと集まってきた。飛行機が飛ぶのは夕方だった。空港行きのバスが出発するのは15時半だから、5時間半の時間が自由に使える計算になる。最後の日も無駄にはしたくはないけれどどうする、と誰もが疲れた顔を見合わせた時だった。「近くにピカソ美術館があるから行ってみたいんだけど…」 めずらしくノリオが提案した。ピカソの絵なら誰もが見てみたいと思ったのだろう。それに、皆、疲れてはいてもホテルをチェックアウトしてしまったのだ、休むに休めない。全員一致で、ピカソ美術館に行くことになった。その後で、コロンブスの塔があるポルト・ベイまで歩き、海辺でスペイン最後の食事をしよう、というおまけまで付いた。荷物はホテルで預かってもらえることになった。ノリオはスーツケースとリュックを預け、ウエストポーチだけを腰に巻きつけて出かけることにした。


  カタルーニャ地方は、誰もが知る偉大な芸術家を数多く輩出している。ガウディが生まれ、ピカソが少年期、青年期を過ごした。その他、画家では、サルバドール・ダリが、ジョアン・ミロが、フランシスコ・デ・ゴヤが…そうそうたる顔ぶれだ。『鳥の歌』 で有名なチェリスト、パブロ・カザルスもカタルーニャの出身だ。ノリオはこの曲が大好きだった。チェロから紡ぎだされる重く切ない音が脳裏に刻まれている。ピカソ美術館はモンカダ通りという細い路地を入った所にある。1963年に開館した落ち着いた佇まいの美術館だ。建物は中世に建てられた貴族の館、アギラール邸を改装したものだ。ピカソはスペイン南部のマラガで生まれ、10歳のときにイベリア半島北西端にあるラ・コルーニャに移り住み、14歳のときにバルセロナに引っ越してきた。この美術館には、彼の初期の作品が中心に展示されており、誰もが知る 「青」 「バラ色」 「新古典主義」 「キュビズム(立体主義)」 の時代の作品は残念ながら少ない。だが、ピカソが絵筆を手にしてから、23歳でこの街を出て行くまでの作風の変遷が見て取れる。

  美術館の前には50人ほどが並んでいた。何時間も待つのかと一瞬心配したが、行列は目に見える速さで進んだ。2階と3階には、油彩、素描、版画、陶器が展示されていた。「やはり、天才と言われる人は違うんだな…」 ノリオはマラガ、ラ・コルーニャ時代に描かれた作品の、少年とは思えないデッサン力に驚かされた。なかでも、ピカソが15〜16歳のときに描いた 『初聖体拝受』 『科学と慈愛』 は輝いていた。その他にも 『ラス・メニーナス』 の連作や 『鳩』 の連作、そして、版画 『闘牛シリーズ』 等見るべきものはたくさんあった。ノリオは絵に囲まれて1時間余りを過ごすと、待ち合わせ場所である1階のショップへと向かった。皆は色とりどりのお土産を手にしていた。


  美術館を出るとライエタナ通りを横切り、ランブラス通りへと向かった。カタルーニャ広場からコロンブスの塔を結ぶ旧市街の目抜き通りだ。ランブラとは水の流れを意味するアラビア語のラムラに由来する。その名が示すように、昔、ここには小川が流れバルセロナの街の西の境界線だった。通りには人があふれていた。大道芸人が技を競い、花屋は彩りを誇っていた。道端のカフェは観光客で一杯だ。ノリオたち一行はゆっくりと、そして、通りの華やかさを楽しむかのように南へと向かって歩いた。目的地はランブラス通りの突き当たり、ポルト・ベイだ。スペインでの最後の食事は何だろう。ノリオは淡い期待を胸に歩き続けた。 (つづく)

Copyright(C)2009 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top