今回はおこづかいについて書いてみようと思う。おこづかい…何とも優しげで、甘い響きのする言葉だ。「おこづかい」 と口の中でつぶやいてみるだけでも、自然と笑みがこぼれてしまう。(※これは本当。ぜひやってみてください。)おこづかいを辞書で調べてみると以下のような文字が並んでいる。『雑費にあてる金銭。また、自由に使える私用の金銭。こづかいぜに。ポケットマネー』 …これでは当たり前過ぎてよくわからない。同じお金でも、おこづかいという言葉には温かさや思いやりが感じられる。おこづかいには金額の多少に関わらず、ただ喜ぶ顔が見たいという親や兄弟、祖父母、親戚、親しい知り合いの心がこもっているのだ。

  毎日のようにおこづかいをねだっていた子供の頃の日々が懐かしい。ぼくがおこづかいをもらうようになったのは、保育園の年長クラスになった頃だったろうか。物心がつくと、お金が品物に換わるということを何となく理解するようになる。なるほど、それで“物心”と言うのかなと、ふと思ったが、もちろんそんなはずはない。物心とは人情、世態などを理解する心のこと。つまり、物心がつくとは自分が置かれている社会の仕組みが分かってくるということだ。生まれてから数年経ち、ひとりで買い物ができるようになると、子供心にも貨幣経済というものが垣間見えてくる。初めて手にした一枚の硬貨が、経済との関わりの糸口となるのだ。ぼくの場合、家の近所にあった 『さえぐさ』 という万屋(よろずや)が経済の仕組みを勉強、そして実感する格好(かっこう)の場となった。


  「おかあちゃん、10円ちょうだい!」 お金というもので、好きな物が買えると分かると、ぼくは毎日のように母に10円をねだった。「はい、はい」 と言って、母は大きな紺のがま口の中から雀色の硬貨をひとつ取り出し、優しく手渡してくれた。あの瞬間のうれしさと言ったらなかった。買い物用のがま口の中にはいつも硬貨が詰まっていた。いや、子供の目にはそう見えたというだけで、いつも詰まっていたとは考えにくい。ただ、硬貨は宝物のように大切なもの、ということだけははっきりと理解できた。

  1円玉と10円玉は当時も今も変わらない。特に10円玉は、ぼくたちの世代には一番馴染みがある硬貨と言ってもいい。この硬貨は1953年に発行が開始された。青銅製だ。表面には 「日本国」 「十円」 という文字と平等院鳳凰堂が、裏面には 「10」 と製造年、そして常磐木がデザインされている。1958年までに発行された硬貨には縁にギザギザがついており、1959年以降に発行された硬貨にはついていないという違いはあるものの、両面のデザインはまったく変わっていない。特に前者はギザ10と呼ばれ、コレクターの間では人気があるらしい。長く使われるもののデザインは、いたってシンプルだ。シンプルな美しさは時代を問わない。ただ、ぼくは硬貨の“表”が“裏”で、“裏”が“表”だと思っていた。どんなことでも真実は確かめてみないと分からない。

  この10円玉ひとつでいろいろなものが買えた。当時は5円で買えるお菓子やアイスキャンディーがたくさんあった。ぼくはおこづかいをもらうと、手の平にギュッと握りしめてさえぐさに走った。店に行く前から買うものを決めていた訳ではない。棚一杯に並ぶ色とりどりのお菓子の中から、今日は何にしようかと選ぶのが楽しかったのだ。どれもが欲しいものばかりだ。その中からひとつ、あるいはふたつ選ぶのはわくわくする。新鮮な体験だった。特に、自分で選べるということがうれしかったのだ。『ぼくももう一丁前なのだ』 と胸を張って10円玉を渡している5歳の自分が目に浮かぶ。さえぐさには、おばさんがふたりとおじさんがひとりいた。おばさんがふたり、おじさんがひとりとは何だか変な言い方だが、当時のぼくにはそんな風な言い方しかできなかった。正確にはご夫婦とぼくより七つ、八つ年上の息子さん、そして、奥さんのお姉さんの4人家族だった。おばさんたち3人は、いつもニコニコとぼくたち子供によく付き合ってくれた。昭和30年代の経済成長期だ。ぼくの住む町にも日本中の他の町と同様たくさんの子供たちがいた。子供たちにとってさえぐさは大切な社交場であり、同年代の子の存在を知る場でもあった。


  当時は5円硬貨と50円硬貨、そして100円硬貨は数種類出回っていた。現在使われている5円玉はほとんどが1959年以降に発行されたものだが、それ以外にも1948年と1949年に発行が開始された2種類の旧硬貨がある。当時はそれらもかなり出回っていたので、同時期に3種類の5円硬貨が使われていたことになる。3種類共に黄銅製で、1948年から1949年まで発行されていたものには穴がなかった。50円硬貨も同様に3種類が流通していた。現在でも使われている硬貨は、白銅製で1967年から発行されている。あとの2種類はニッケル製で1955年と1959年にデザインが変更されたものだった。1959年発行開始の硬貨は現在のものより一回り大きくて1グラム重かった。1955年発行開始の硬貨には、旧5円硬貨と同じように穴がなかった。知らない人にしてみたら、穴のない5円玉や50円玉を想像するのはむずかしいだろう。当時はまだ、500円札の時代だったし、100円札もまだ普通に使われていた。こう書くと、ぼくは一体何歳なんだ?と怪しまれてしまいそうだが(笑)、40年の月日とはこういうものなのだろう。ぼくたちの世代の人は皆、500円札と100円札に描かれていた岩倉具視、板垣退助の表情までもはっきりと覚えているはずだ。


  この度、ぼくたち日本国民は国からおこづかいをもらえることになった。発案の理由や法令化されるまでの経緯は、テレビや新聞で見聞きしている程度だから詳しくは知らないが、こんなこと生まれて初めてだ。どうやら前代未聞のことらしい。総額2兆円のお金が国民一人ひとりに配られるのだ。税金が返ってくるだけだとか、他に使い方がなかったのかとか、穿った意見もあるだろう。でも、ぼくは素直に喜んでいいのではないかと思う。定額給付金なんてしかめっ面した名前にするからいけないのだ。『2009年国民総おこづかい』 とか 『平成おこづかい大作戦!』 なんて名前を付けてくれたら 「うれしい!」 「ありがとう!」 と言って受け取りたくなると思うのだがどうだろう。冗談はさておいて、この定額給付金、国から直接一人ひとりの手に渡るということが重要なのだと思う。1万2千円が多いか少ないかの問題でもない。ぼくは、政府が“国民がわくわくするような政策”を実施してくれるということをうれしく思うのだ。18歳以下と65歳以上には2万円というのも気が利いていると思う。

  税金を国民に配ったという点で思い出されるのが、1988年に竹下首相が 『ふるさと創生』 と称して全国の市町村に配った1億円だ。当時は3268市町村があった。そのうちの187の富裕自治体を除いた3081市長村に1億円ずつ渡したのだ。『ご自由にお使いください』 と渡したはいいが、自治体も使い道には四苦八苦したようだ。温泉を掘るのが人気だった。豪華な公共施設も造られた。純金の鰹やこけしを作った町も、宝くじを買い続けたところもあったというからおもしろい。ただ、この政策では一瞬なりとも国民一人ひとりの懐(ふところ)を温めることはできなかった。

  定額給付金に合わせて、多くの自治体がプレミアム商品券などの発行を計画している。観光業界も1万2千円の豪華プランを企画し、百貨店や流通業界も熱い視線を注いでいる。いや、すべての業界が注目し、消費拡大を当て込んでいるに違いないのだ。この政策だけで経済を立て直せるなんて甘いことは到底考えられないが、ちょっと一息、少しだけでも心が温まったと思えればいいのではないだろうか。ぼくも、たぶん、一生に一度だろう国からのおこづかいを、何に使うかじっくり考えたいと思う。

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