2009年4月20日、ぼくは48歳になった。48回目の誕生日を迎える今年は、4回目の年男(としおとこ)にあたる。生まれてから12年ごとに巡ってくる年男(年女)は、日本人ならば誰もが知っているように、十二支(じゅうにし)に由来している。十二支は暦から始まり、年・月・日・時刻・方角、そして、ことがらの順序を表すのにも用いられるようになった。更に、陰陽五行説とも結びついて様々な占いにも応用されてきた。起源は古い。紀元前1600年頃に中国で興った殷王朝の時代には、既に使われていたというから驚いてしまう。日本には古墳時代に伝わった。子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)。現在でも中国から伝わったそのままの形で使われている。十二支は台湾、韓国、モンゴル、タイ、ベトナム等のアジア各国はもちろんのこと、ロシアやベラルーシ、ブルガリアにも伝わっている。ただし日本ではイノシシとされている亥が中国や韓国では豚であるように、国によって当てはめる動物の種類には若干の違いがある。中国4000年の歴史は、アジア内外に計り知れない影響を及ぼしてきた。東洋の英知と呼ぶに相応(ふさわ)しいものばかりだ。


  ぼくが生まれた1961年が丑年(うしどし)だったからぼくは丑年生まれであり、2009年が丑年だからぼくは今年の年男ということなのだが、こんな説明なら小学生にでも分かる。せっかくだから、この機会にもう少し勉強してみようと思う。『今年の干支(えと)は丑だ』 というような使われ方をすることがあるが、この言い方は正確ではない。干支(えと)とは、十干(じっかん)と前述の十二支を組み合わせたもので、十干十二支(じっかんじゅうにし)、または天干地支(てんかんちし)の略のことだ。十干とは甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)。この十干10種類と十二支12種類を陰陽五行説の考え方に基づいて組み合わせた60種類を干支という。(※十干と十二支は陰と陽に別れている。十干の場合は、訓読みの語尾が「え」のものは陽、「と」になっているものが陰である。陰干と陰支、陽干と陽支の組合せのみが存在するとされるため、陰と陽の組合せは排除されている。)干支を年に当てはめた場合、60年で一巡することになる。60歳で還暦を迎えるというのはこのことだ。また、壬申の年に起こった壬申の乱や甲子の年に完成した阪神甲子園球場は干支に因(ちな)んで名付けられた。

  ぼくの5回目の年男の年、つまり12年後の2021年は1961年と同じ辛丑、つまりぼくたち昭和36年生まれは還暦を迎えるということになる。還暦には“赤ちゃんに戻る”という意味で、赤い帽子をかぶり赤いちゃんちゃんこを着ることになっているらしいが、そんなのは嫌だ。その時は、せめて赤いシャツ、赤いTシャツぐらいで済ませたい。

  1回目の年男は12歳、小学校6年生だった。何か特別いいことがあったかどうかは覚えていないが、勉強もスポーツも充実していたように思う。2回目の年男、24歳の時には新しいバンド 『HANAKO』 を結成した。個人としても、ミュージシャンとしてサポートの仕事が波に乗ってきた頃だったし、マッチ(近藤真彦)のバックバンド 『YAMATO』 に参加したのもこの年だ。環境がいきなり変わったのを覚えている。3回目の年男は36歳、この年1997年は記念すべきBARAKA結成の年だ。沢田研二さん、尾藤イサオさんのバンド、そして、久しぶりにマッチのツアーにも参加している。本当に忙しかったが、コンサートが重なることはなく、スケジュールは奇蹟のようにうまく運んだ。こう考えると、ぼくにとっての年男は、仕事において大きな変化が現れる年のようだ。4回目の今年は果たしてどんなことが待ち受けているのだろうか。2009年も3分の1が過ぎてしまった。まだ、目に見える変化は現れてはいないが、ただ、何か“兆”のようなものははっきりと感じられる。バンドにおいても、そして、音楽のこと以外でも、真剣に向き合ってきた様々なことが実を結び始めるのかもしれない。この“兆”という文字を含む言葉に、正反対の意味を持つ言葉がふたつある。“挑む”と“逃げる”だ。“兆”を自分のものにするのか、がっしりと受け止めるのか…。気付かずに通り過ごしてしまうのか、気付いても目を逸らして逃げてしまうのか…。第一歩が成否を決める。謙虚に、そして、大胆に行きたいと思う。そういえば、“桃”の木も桜に負けないほど美しい花を咲かせていた。


  信長は 「に〜ん〜げ〜ん、ごじうね〜ん〜」 と謡(うた)ったが、人生50年が実現したのは、つい最近のことだ。調べてみると、その結果はぼくの想像をはるかに上回っていた、。びっくりしたのなんの…。信長の時代から現代までの、日本人の平均寿命をおおまかに記(しる)してみよう。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康等が活躍した16世紀から17世紀中頃まで、平均寿命は30歳をちょっと超えるくらいだった。それでも、大名や武将等歴史に名を残した人たちに限って言えば60歳を超えている。食生活や住環境のせいらしいが、一般の人たちの人生30年はあんまりだ。平均寿命がこれほどまでに短いのは、乳幼児の死亡率が高かったことが大きな要因らしい。だから、成人した人たちはもっと長く生きたと思われるが、現代を生きるぼくたちには30年だけの人生なんて想像もつかない。江戸時代が終わり、明治の世になっても、大きな変化は見られなかった。明治13年(1883年)でも平均寿命は男36歳、女38歳だった。平均40歳を超えるのは大正になってからだ。そして、漸(ようや)く人生50年を実現したのが、第二次世界大戦終結後の昭和22年(1947年)。たかだか60年前の話だ。その後は、昭和25年(1950年)に女性の平均寿命が60歳を超え、翌年(1951年)には男性も60歳を超した。昭和35年(1960年)には女性が、昭和46年(1971年)には男性が70歳を超し、現在ではご存知のように女性の平均寿命は世界一、男性もアイスランドに次いで2位だ。

  平均寿命が伸びた一番の理由は乳幼児の死亡率が減少したことだ。大正末期(1925年頃)には、生まれてきた子供100人のうち15人が1歳になるまでに死亡していた。それから、死亡率はだんだんと低下して1947年(昭和22年)には10%を下回るようになった。1947年(昭和22年)には7.67%、1961年(昭和36年)には2.86%、2002年(平成14年)には0.3%にまで減少し、世界でもトップクラスの低さになった。長く生きることだけが素晴らしいのではないことは分かっているが、現代に生きるぼくたちは本当に幸せだ。ここ60年で平均寿命は30年も延びた。30年は大きい!!この30年をどう捉えるかが問題だ。ただ、だらだらと過ごしていたのではもったいない。自分には“何ができるのか…”“何をすればいいのか…”誕生日にこんなことを考えるのも悪くはないと思う。ぼくは、ここからの12年間が本当の意味での勝負だと思っている。元気で溌剌(はつらつ)としたかっこいい60歳を迎えるためにも、今日からの48歳を思い切り進んで行きたい。

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