ノリオは目前で揺れているバナナをいらない、いらないとでも言うかのように手で払ってみせた。更に、不本意ながら嫌な顔をして迷惑だという気持ちをはっきりと表示してみた。それでも、ふたりのジプシー娘に怯む様子はまったくない。「バナナ!」
「バナナ!」 それどころか声は張りを増し、軽快なフットワークはこれからが本番だと言わんばかりだ。獲物を狙う猛獣さながら、ふたりは包囲網を縮め、ぎりぎりとノリオを締め付けてくる。ノリオが最初に感じた殺気は気のせいなどではなかった。ふたりは初めから本気だったのだ。
もはや、冗談では済まされない。ノリオは本気で立ち向かわなければ大変なことになるぞと気を引き締めた。『負けるものか!』 ノリオは、ここに来て初めて危険を感じたのだが、ナイフで脅されている訳ではないから身の危険を感じるほどの緊迫感はい。この時点でも、ノリオにはふたりの真の目的が何なのかまだ分かってはいなかった。『ふたりはどんなことをしてでも、オレにバナナを売りつけようとしている』
と思い込んでいた。もし、この時、ノリオが本当に危険を感じ全力で駆け出していたら、危機は脱せたかもしれない。だが、ノリオにはそこまでの危機意識はなかった。娘ふたりにいいようにあしらわれて逃げ出すのは男の沽券に関わると思っていた。
右手にしっかりと握られた太く艶のいいバナナは、ノリオの顔に触れそうな位置で激しく振られている。ぶつかってもおかしくない距離だ。『危ないじゃないか』
顔すれすれのところで右へ左へと動くバナナをノリオは両手を使って遮(さえぎ)った。人間には目の前に近づくものを振り払おうとする習性がある。ノリオは必死に手を振り回した。「いらない!」
「だから、いらないって!」 さすがのノリオも怒気を含んだ日本語で応酬はするが、バナナを掴み取って怒鳴るようなことはしない。きっと、日本人男性ならば誰もがこの程度の抵抗しかしないだろう。日本男児はこんな他愛(たわい)のないことで、女性と真剣にやりあったりはしない。心のどこかに、女性に対して向きになることは恥ずかしことだという自負があるからだ。ジプシー娘はそのことを知っていたに違いない。ふたり対ひとりとはいえ、真っ昼間に、しかも見晴らしのいい大通りで大の男相手に危険なゲームを仕掛けているのだ。「バナナ!!」
「バナナ!!」 ふたりの動きは急に激しくなった。ノリオはバナナを避けるために何度も体を仰(の)け反(ぞ)らせた。バナナは振り払っても追いやってもノリオの手の動きを見透かしたかのように眼前に迫ってくる。「いい加減にしろ!」
その時だった。ノリオの左側でひとりの婦人が大声を発した。何を言っているのか分からないがその声は尋常ではない。ノリオもふたりのジプシー娘も動きを止めその婦人を見た。婦人はジプシー娘に近寄ると、いきなりバナナを取り上げ投げつけた。「何をやってるの〜!」
「私は見たわよ!!」 たぶん、それらしきことを叫んでいたのだろう。ノリオは急に嫌な感じがした。そして、ウエストポーチに目をやった。「あっ!」
ノリオは一瞬にして凍りついた。ウエストポーチが開いている。血の気が引いていくのがはっきりと分かった。ノリオは必死に財布を探した。「ない…やられたのか!」
ウエストポーチの中に財布はなかった。真っ青になったノリオは目の前のジプシー娘を睨(にら)みつけた!すると、婦人に窘(たしな)められ続けているジプシー娘はにやりと笑い、マントの下からノリオの財布をそっと差し出した。まるで、マジックの種明かしをするかのように…。ノリオは無我夢中で財布を掴み取ると中身を確かめた。お金は…ある!金額は…たぶんだいじょうぶだろう。クレジットカードは…ある!財布の中身はそのままだ!ノリオは更にウエストポーチの中を探った。パスポートは…あった!飛行機のチケットは…ある!よかった!だいじょうぶだ!!
たかだか1、2分のことだった。ちょっと前を行くタカギさんも異変に気付き駆け寄ってきたが、何が起こったのかすぐには把握できないでいた。ノリオは、今、起こったことを頭の中で整理するので精一杯だった。いや、整理なんてできるはずがなかった。そこには、掏(す)られた財布が戻ってきたという事実だけがあった。ノリオは落ち着こう、落ち着こうとただ、自分自身に言い聞かせていた。助けてくれた婦人にお礼を言ったか言わぬかのうちにノリオはその場を離れた。嫌な事実をかき消したかった。悪夢を置き去りにしてその場から逃げ出したかった。
ヨウヘイたちは適当な店を見つけて料理を注文していた。ノリオとタカギさんは席に着くなり、遅れて来た理由を説明した。ノリオがスリに遭ったという事実は皆に伝わったものの、財布はノリオの手元に戻りノリオも無事にここにいるということで、さほど大袈裟な話にはならなかった。「大変だったなあ…」
とか 「よかったなあ…」 という声をかけてくれる人もいたが、ノリオの耳には届かなかった。いや聞こえてはいたが聞いてはいなかった。
ノリオの心は最悪の事態は免(まぬが)れたという安堵の気持ちに満たされたが、同時に新たな恐怖心が芽生え始めていた。頭の中では様々なことが交錯している。あの婦人は観光客だったのだろうか、地元の人だったのだろうか。ジプシー娘が素直に財布を差し出したところをみると、もしかしたら私服の警察官だったのかもしれない。だが、あの婦人がいなかったとしたら…ノリオは思い出すだけでぞっとした。マントを手に踊っていた娘は、ノリオが仰け反る度にウエストポーチに手を伸ばしていた。マントの下から気付かれぬように少しずつ、ほんの少しずつチャックを開けていたのだ。娘は数センチ、いや、数ミリずつチャックを開け、見事に財布を抜き取ってしまった。ノリオの意識は100%バナナに向かっていた。まんまと落とし穴に嵌(はま)ってしまったのだ。ウエストポーチにマントの娘の手が触れていたなんてまったく気が付かなかった。ふたりのジプシー娘はプロだった。時間が経ち、落ち着けば落ち着くほどいかに危機一髪だったかが鮮明になり、ノリオの胸には恐ろしさがこみ上げてきた。料理が運ばれてきた。最後のスペイン料理の味どころか、何をどう口に運んだのかさえ覚えてはいない。
(つづく)
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