汗ばむような春の午後だった。オレは馴染みの定食屋、大黒屋にいた。昼飯の時間はとっくに過ぎていたが、そんなことは計算尽(づく)だ。余計に腹が減った分、美味さが増すという寸法だ。重ねて言うが、いや、初めて言うが、オレは大いなる野望を心に握りしめ、学生時代を過ごしたココロノ市に足を伸ばしていた。「野望を心に握りしめ」…これはいい。詩的な表現だし、文筆家としてのオレの力量が垣間見える。自画自賛かって?何度も言わせないでほしい。オレは正直に書くと宣言したはずだ。これからも会心の文に出会ったら…文に出会ったら?これは…たいしたことないな。失礼、オレは会心の文に出会ったら、たとえ自分の文章でも誉める。そんなボンゴウがひとりくらいいたっていいじゃないか。ブンゴウになんてなれる訳はないから、特になりたくもないがね、ボンゴウぐらいがちょうどいい。
大いなる野望とは?はははは、そんなことも分からないのか、いいだろう、聞かせてやろう。驚くなよ。オレの野望とは焼き鯖定食を喰うことだ!「…」
何を面食らっているんだ。この作品を読むということはオレを知るということだ。作品、敢えてそう呼ばしてもらおう。オレは、プロとしてこの連載を引き受けたんだ。心して、いや、それでは足りない。覚悟して付き合ってもらいたい。それから、たかが焼き鯖定食を喰うのに野望だの
「!」 マークだのを使って何を強調しているんだ、という声も聞こえてくるが、オレにも言い分がある。野望とは 「身のほどを超えた大きな望み」 だとか
「野心」 だとか、そんな意味であることは百も承知だ。だが、考えても見てくれ。オレは自己満足のための日記を書いている訳ではない。これは、曲がりなりにも本屋に並ぶ雑誌の原稿だ。「私は焼き鯖定食を食べるためにココロノ市にいました」
では読者の心に響く訳がない。オレは、大黒屋の焼き鯖定食がそれだけ価値ある食い物だということを伝えたかった。その気持ちがオレに野望という言葉を使わせたんだ。
「オレの野望は焼き鯖定食を喰うことだ!」 と現在形で断言してしまったが、いくらなんでも常にそう思って生きている訳ではない。そんな野望ならば1000円もあれば毎日でも遂(と)げられることになる。正確には
「オレのあの日の野望は焼き鯖定食を喰うことだった!」 だ。冷静に考えると野望という言葉を選んだのはあんまりだったとも思えるが、ものには勢いというものがある。大目に見てほしい。
昨今、食い物の番組が増えた。オレは根っからの食いしん坊だから時間が合えば見る。食べ物を紹介するのに一番必要なものは映像だ。ほとんどの場合、美味いものは見た目も美しい。次にくるのが喰いっぷりや表情だ。オレもあんな思いをしてみたいと羨ましがらせたらしめたものだ。気持ちの良い喰いっぷりは映像に色を添える。画面に登場する人には豪快に、しかも、下品にならずに喰ってほしいと思う。そして、最も大事なのが食べた人の感想、つまり言葉だ。言葉の魔術師を目指すオレにとって…、魔術師は言い過ぎだな、他に何があるか…「言葉の手品師」
「言葉の相場師」 「言葉のペテン師」 「言葉の呪術師」…止めよう。これではタイトル話の二の舞になってしまう。言葉の色事師であるオレ(いつ決まったんだ?)にはどうしても許せない言葉がある。それは、この手の番組で必ずと言っていいほど飛び交う
「ジューシー」 という言葉だ。ジューシーというのは 「水分が多いさま」 「汁が豊かなさま」 を表す形容詞だ。ジュース(juice)という名詞から派生した言葉だということはすぐに分かる。普通は果物に使われるが、最近は肉汁に対して使われることが多い。ハンバーグ等の肉料理を口にした人は、十中八九
「ジューシーですね〜」 とのたまう。これはいかがなものか。もっと他に表現のしようがあるはずだ。「うまい!」 とか 「おいしい!」 は口から自然にこぼれても当然だと思えるが、それ以外の味を表現する言葉までが決まり文句になってしまっている。「あっさりとした〜」
「まろやかな〜」 「濃厚な〜」 等がそれだ。それに、甘いものを食べるときの 「甘くなくておいしい」 も勘弁してほしい。中には言葉の傀儡師(くぐつし)よろしく努力を惜しまない人もいる。そんな人の様にとまでは言わないが、言葉は大切に的確に伝えてほしいと思う。
ジュースで思い出した。小学校に上がった頃バドミントンが流行った。バドミントンのスペルはBadminton。「バトミントン」 ではなく、「バドミントン」
だ。こんな誰もが知っているような単語こそ、本来の読み方をしっかりと把握しておきたい。バドミントンではマッチポイントを取った後に同点になった状態のことをジュースと言う。(※テニスや卓球でも同様にジュースを使うが、そのことはもう少し大きくなってから知った。)このジュースは、果汁のジュースのことではない。英語ではdeuceと書き、デュースと表記されることもある。たまにテレビでテニスを見ることがあるが、審判の声はあきらかにデュースと聞こえる。語源には諸説あるそうだが、そのうちのひとつがフランス語で2を意味するdeuxが変化したというものだ。ジュースになった場合、2点連取しなければ勝利することができない、つまり「あと2点」という意味になる。なるほど、これは納得できる。英語のdeuceは、二つのサイコロを振ったときの最低数が2であることから、最低の状況を指すこともあり、そこから災難とか不運、あるいは悪魔なんて意味まで持つようになったらしい。その他の意味も2に関連したものが多く、トランプの2の札、2ドル、ピースサイン(指を2本使うところから)などある。そういえば、戦国時代から江戸時代のキリシタンは神のことをデウスと呼んだ。デュース(deuce)はデウスとも読める。
当時は、何でジュースなんだろうと不思議でならなかった。ゲームよりも何より、ジュースという言葉を使うのが楽しくて 「ジュース〜!」 「ジュース〜!」
と叫んでいたのはオレだけではないはずだ。そして、そんな時は家に帰るやいなや 「おかあさん、ジュース〜!」 と叫んだものだ。あのころのジュースは粉ジュースだった。1950〜60年代には果汁風味や発泡性の粉末ソーダが人気を博し、多くのメーカーから発売されていた。渡辺ジュースの素(もと)のコマーシャルを覚えている人も多いはずだ。チクロやズルチン、サッカリン等の人工甘味料は砂糖に比べはるかに安かった。一人前ずつ袋分けされた粉末をコップに入れ、水を注ぎ箸でササッとかき回す。水の量やかき混ぜる度合いによって味が違ったものだ。さっと軽くかき混ぜてググッとあおると、コップの下には粉末が固まっている。その塊(かたまり)を認めると更に水を注ぐ。こうすると、もう一杯飲めたのだ。二杯目は水を少なめにしてよくかき混ぜる。今度はゆっくりと味わって飲むのが通だった。その後すぐに、人工甘味料は健康を害するということが分かり、粉ジュースはあっという間に世間から消え、代わりにビン入りや缶入りのジュースが主役となった。
粉ジュースは今でも駄菓子屋で手に入れることができるらしい。もちろん、当時のような人工甘味料は使われていない。それに、レオタード、いや、ゲータレードか…、や、ウッカリスエ…ではなくポカリスエットのようなスポーツドリンクの粉末も売られているらしいが手を出す気にはなれない。あの頃飲んだ毒入り粉ジュース(もはや問題はないだろう、毒は毒だ。)の旨さは二度と味わうことはできない…。
し、しまった!!!やってしまった!!道草にも程がある。焼き鯖定食の話はどこに行ってしまったんだ?すぐにやり直さなくては…。汗ばむような春の午後だった。オレは馴染みの定食屋、大黒屋にいた…。
(つづく)
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