そろそろ本腰を入れて野望の話をせねばなるまい。何度も言うようで恐縮だが、本来、定食を食うぐらいのことに野望なんて言葉は使わない。オレは、こんな言葉を使いたくなるほど性根を据えて、真正面から焼き鯖定食と向き合いたかった。じっくりと味わい尽くしたかった。そんなオレの気持ち、心構え、いや、敬意と言ってもいい。そんな想いは十分に伝わったはずだ。さて、いよいよ核心を語るときが来たようだ。
あの日、オレは窓際の席で焼き鯖定食が来るのを待っていた。いつものように熱い番茶とジャズの調べが期待を格別なものに押し上げてくれていた。待つ時間さえもが愛(いと)おしい。オレは余計なことは考えずにゆったりと大黒屋の空気に浸っていた。程よい時間が流れた頃、使い込まれた盆に載せられた焼き鯖定食が運ばれてきた。「お待たせしました」
耳元で落ち着いた声が響く。よし!オレは一瞬にして臨戦態勢を整えた。ドーパミンを溢れんばかりに分泌して先へ先へと行こうとする脳を牽制しながら、オレは右手で箸を掴んだ。割り箸ではない。やはり使い込まれた大ぶりの箸だ。箸を掴むと同時に左手は目の前にある醤油に伸びた。醤油とソースの入れ物は明らかに違う。間違えるはずはない。それでもオレはしっかりと目視した上で醤油を手にした。大黒屋では醤油も一味違う。熱いうちにサッとかけたい。ジュッと一振りしたい。
その時だった。もう一度、耳元で店員の声がした。「白和えです」 そうだった!腹が減っていたオレはこの日に限ってもう一品、白和えを注文していたのだ。白和えは白胡麻と豆腐をすり混ぜて砂糖、塩、酢、白味噌などで調味した衣で、下味をつけた野菜やこんにゃく等を和(あ)えた料理だ。大黒屋の白和えは白味噌が効いていてうまい。オレは咄嗟に利き腕である右手ではなく左手を差し出した。店員はオレの右側にいる。箸を置き右手で受け取るのが自然だ。だが、オレは左手を出していた。一瞬たりとも箸から手を離したくはなかったからだ。オレには、そんな心の余裕は残されていなかった。握っていた醤油のビンを盆の左側に置き、オレは左手で白和えを受け取った。このときに生まれた数秒のロスが命取りになった。
オレの左手は白和えを盆の向こう側に置くやいなや、醤油のビンへと向かった。今度は目を向けることなく軽く掴み、そして、まだまだ熱い湯気を放っている焼き鯖に醤油をジュッと一振りした。いや、一振りした・・・・つもりだった。「ああああああああ!!し、しまったあああああ!!醤油じゃな〜〜〜〜〜い!!」
気付いたのは、憲房(けんぽう)色の液体が重力のままに落下し始めてから、わずか零コンマ何秒か後のことだった。オレは自慢の反射神経で左手を反らせたが後の祭りだった。まるでスローモーションだった。ドロッとした液体がオレの焼き鯖に襲いかかった。液体は焼き鯖のほぼ中央に落下し、ジワジワっと広がった。「あッ・・・・・・」
オレは一瞬気を失いかけたが、スンでのところで踏み留まった。い、いったい何が起こったんだ??オレはすぐに事実を認めることができなかった。
オレの意識の100%が焼き鯖に向いていた。一秒でも早く焼き鯖を口にしたかったオレは、醤油を盆の左に置いたことをすっかり忘れ、醤油とソースが仲良く並んでいた場所に手を伸ばしてしまったのだ。左手は知らず知らずのうちにソースの容器を握っていた。すでに最高潮に達していたオレの欲望は一瞥(いちべつ)する間さえも惜しんでしまったのだ。手は醤油の残像に向かって伸びていた。
幸いなことに周囲の人は誰も気付いていないようだった。大人としての尊厳はどうにか守った。だが、こんな哀れな状況は誰にも気付かれてはならない。とりあえず、オレは何げない顔をして焼き鯖を覆うソースを箸でよけた。だが、熱い焼き鯖に絡んだソースの甘い香りが立ち上がってくるだけだ。さて、どうすればいい・・・。どうにかなんてなるはずはないのだが、ここは冷静に対処しなければならない。『店の人に正直に話してみたらどうだ』
もう一人のオレがつぶやく。故意ではないにしろ焼き鯖にソースをかけたなんて恥ずかしくて言えやしない。『紙ナプキンで拭(ぬぐ)ってみたらどうだ』
すぐにでも拭いたいが周りの目がある。絶対に知られたくはない。それに、ソースはすでに焼き鯖の繊維の中にまで染み込んでしまった。拭いきれるはずがない。『平然と口にすればいいではないか』
それもあんまりだ。どんな想いでここに来たと思っているんだ。野望という言葉を使ってまで・・・。これでは、目の前の焼き鯖に申し訳がたたない。オレは滲(にじ)みそうになる涙を必死で抑えた。
最早、なす術(すべ)はなかった。本来の目的を達成するためには注文しなおすことも考えられたが、そんなにもったいないことはできない。『何も食べないで砂漠を3日歩かされたとしたらどうだ?』
たとえ味噌がついていたってむしゃむしゃと・・・。んん?味噌か。味噌ならばまだいい。、鯖味噌というものがある。煮込んだ鯖には味噌がよく合う。焼き鯖にだって合うに違いない。『マヨネーズだったらどうだ?』
マヨネーズか。マヨネーズはシーチキンにはよく合う。鮪(マグロ)に合うということは・・・。無理だ。どう考えてもマヨネーズも焼き鯖には合わない。『トマトケチャップなら・・・』
やめろ!引っ込め!何も食べないで砂漠をという発想自体に無理があるんだ。焼き鯖定食は、言わばドリームなんだ!!
あの日のオレの野望は人生勉強という名で呼ばれるに相応(ふさわ)しい。どんなに素材が素晴らしくても、また、料理が完璧だったとしても、最後の最後に加える一振りの調味料やスパイスで台無しにしてしまうことがある、ということを改めて思い知った。仕事でも人生でもまったく同じことが言える。結局、オレはそのまま黙々と焼き鯖定食を平らげた。大根おろしに醤油を垂らし、それを口直しにして焼き鯖定食を食べきった。オレは、詰めを誤('あやま)った自分の未熟さを咀嚼(そしゃく)した。そして、余裕がないときの人間の愚行を噛みしめた。目を閉じ、何度も何度も噛みしめた。
(完)
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