話は1年ちょっと前に遡(さかのぼ)る。オレはC県K市に向かっていた。新しいクライアントに映画のフライヤーを届けるためだ。フライヤーはけっこうな量だ。手では持ちきれない。オレは当然のように会社の車を走らせた。社の車にはETCはもちろんのこと、ナビゲーション・システムも付いている。ナビはかなり便利な代物(しろもの)だ。行く先の住所や電話番号を打ち込めば、地図と言葉で道案内してくれる。2002年に購入したものだから、現在のものと比べれば性能はそれほどでもない。だが、ラジオはもちろんのこと、CDとMDが聴け、テレビ(アナログのみ)やDVDが見られる。更にハードディスクも内蔵されていてCDから相当量の音楽を取り込むことができる。この車を使う社内の誰もが自然と好きな音楽を残すようになった。

  オレは初めてこの車を使ったとき 「イル・ポスティーノ」 というイタリア映画のサントラをハードディスクに入れた。大好きなアルバムだ。アコーディオンと弦楽器のハーモニーが美しい曲、田舎町のレストランで演奏されているような味わい深い曲、軽快なジャズ、繊細なピアノ曲、哀愁漂うボーカル曲、チェンバロやハープシコードをフューチャーした懐かしさを感じさせる曲・・・。全編がほのぼのとした優しさに包まれている。それでいて、旋律はどこか切ない。都内で車を運転するとどうしても苛々(いらいら)してしまいがちだが、このCDは、オレのささくれ立ちそうな心を癒してくれる。音楽には底知れぬ力がある。そして、その力はオレたちが感じているよりもはるかに大きいのだと思えてならない。誰にだってそっと寄り添ってくれる音楽がある。

  「イル・ポスティーノ」 という映画自体も大好きだが、この作品は人によって好き嫌いが分かれるタイプかもしれない。マイケル・ラドフォード監督の名作だ。イタリア、ナポリの沖合に浮かぶ小さな島が舞台。政府に追われてチリから亡命してきた世界的詩人パブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)とひょんなことから彼に郵便を届ける配達人となった青年マリオ(マッシモ・トロイージ)との交流の物語だ。マリオは彼との出会いにより、詩の世界に触れ、恋を知り、人間として目覚めていく。ハリウッド的作品にはない素朴なメッセージが心を打つ。主演のマッシモ・トロイージは心臓病と戦いながらの撮影だった。クランクアップ後、彼は力尽き作品は遺作となってしまった。・・・いやはや、オレは映画の話になるとどうも止まらない。違反者講習を受ける羽目になった「6点」の内訳を説明しようとしていたのだった。続けよう・・・。


  オレは、あの日もナビを作動させ 「イル・ポスティーノ」 を程よい音量で流しながらハンドルを握っていた。目的地はK駅の近くだ。1時間もあれば着く距離だった。「500m先を右折です」 「目的地まであと6キロです」 当たり障りのない女の声が道案内をしてくれている。ナビには “声” も何種類かインプットされていて、好きなものを選ぶことができる。このナビの声は最初に設定されたままになっていた。確かに男より女の声の方が自然だろう。男の図太い声でいちいち指示されていたら、それこそ苛々してしまいそうだ。オレは、本当は大原麗子の声が好きだ。・・・ちょっと待て。この文の “本当は” の使い方はちょっとおかしいだろう。すぐ前に 「オレは、峰不二子の声が好きだと思っているかもしれないが・・・」 とか、「オレは、以前、大原麗子の声は好きじゃないと言っていたが・・・」 とかいう文があってその後に続くのなら分かる。だが、いきなり “本当は” はない。・・・なんてことだ。このままでは自分の文章を自分で校正し、すぐに訂正すべきところに手も加えず、その過程や顛末までも書き残すことになってしまう。・・・まあ、いいか。オレは、文章を書くというのは、自分自身をさらけだすことだと思っている。この部分は曲げられない。・・・ん?この場合の “曲げられない” は・・・。いや、もういい。この辺にしておこう。兎(と)にも角(かく)にも、オレは、本当は大原麗子のちょっとかすれた甘い声が好きなのだ。そのうち、ナビにも好きな役者や声優の声がインプットされ、自由に選べる時代が来るかもしれない。旅立ってしまった大原麗子の声は復活するのだろうか。


  目的地が近付くとナビが告げた。「80m先を左折です」 画面下には、あと200mと表示されている。次の角を曲がるとすぐに目的地だ。思ったより早く着きそうだ。「よし!」 オレは左にハンドルを切ろうとした。だが、道角には進入禁止の標識が大きく掲げられている。「だめだ!」 きっと、この道はナビを購入した2002年以降に、一方通行に変更されたのだろう。ふふふ・・・ここでオレが知らなかった振りをして一通に突っ込んだとでもお思いか?はははは、そんなことをする訳がない。オレはこれでも大人だ。そのくらいの判断力は持っている。オレは仕方なく右折した。すると、突然ナビが叫んだ。「ルートを逆走しています!」 「ルートを逆走しています!」 『けっ、馬鹿じゃねえんだ。そんなこと分かってるよ』 オレは回り道を模索しながらも車を走らせた。「・・・・・」 ナビは急に黙りこくってしまった。交差点があっても知らんぷりだ。しばらくすると 「あ〜あ、またやっちゃいましたね・・・」 「目的地は反対ですよ!」 「かっこう悪い・・・」 「もう、知りません!プン!」 ・・・なんて拗ねた声が・・・はははは、そんな声がする訳はない。


  オレは大きく迂回した。とにかく一度駅に戻ろうとナビに映し出される地図を見ながら細い道をたどった。次の大通りを左折すると駅に向かうはずだ。すぐに大通りに行き当たった。信号はない。右方向から来たK駅行きのバスが通り過ぎると、オレはそのバスのすぐ後ろに付いた。ナビは依然黙ったままだ。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。やはり突き当たりは駅だった。道はゆっくりと左方向にカーブしている。道なりに進むしかない。道は合っているのか・・・。オレはバスに付いたまま左方向にハンドルを切った。バスは曲がるとすぐに左側に寄り、重そうな車体を停めた。オレは仕方なくそのまま直進した。『さて、どうしようか・・・』 その時だった。バックミラーに走る人の姿が映った。黒い制服のようなものを着ている。警官か?人影は全速力で走っている。どうやらオレの車に向かっているらしい。『どうしたんだ?』 オレは車の速度を落とした。(つづく)

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