交通安全活動体験講習が始まった。最早、逃げ出す訳にはいかない。今日一日は諦めたとばかりのオレたち受講生を前に、教官は淡々と話し始めた。彼らには、オレたちの心の内なんてすっかりお見通しだ。やり場のない不満を抱えてやってきたこと、自分の違反行為そのものを棚に上げて被害者意識さえ持っている場合があること、そんな怒りの矛先が自分たちに向かってくるだろうこと。そして、そんなオレたちの扱い方まで熟知していることが余裕の表情から見て取れる。勝負は戦いの前から決していた。彼らは、思い通りにならないと駄々をこねる園児に対する保育士、幼稚園教員たちと変わらない。教官たちが偉いのか、俺たちが情けないのか、考えてみたがその両方だとしか言いようがない。だが、いやな感じはまったくない。それどころか、その柔らかな声のトーンに知らず知らずのうちに引き込まれていく。声は挨拶からさりげなく今日一日の時間割の説明に移った。受講上の注意があり、必要書類の作成が終わると、続いて運転適正検査が行われた。


  運転適正検査とは、自己分析をして己を知り、交通安全に役立てようというものだ。点数を競うものでも、結果によって何かが裁定されるというものでもない。設問を読み、自分が当てはまっていると思えば○を、違うと感じたら×を記す。正直に答えさえすればいい。その答えの傾向によって安全運転に関するアドバイスをしてくれるというものだ。○か×か、シンプルなだけに問いによっては様々なことを考えてしまう。

  例えば、『前の車がゆっくり走っているとイライラする』 という設問にはどう答えるだろう。オレは、正直に言うが、たいていの場合、前の車があまりにゆっくりだとイライラしてしまう。急いでいるときはもちろんだが、時間の制約がなくてもなぜか先へ先へと急(せ)いてしまうのだ。この傾向はオレだけではないだろう。約束の時間に遅れてはならないと焦ったりいらだったりしているときは、誰だって前の車が邪魔に思えるはずだ。オレはそういう感情が良くないことだと分かってはいるし、そんな自分を知っているからこそリラックスするために好きな音楽をかけたり、早めに出かけたりと工夫をするようになった。どんなことに対してでも前へ前へと突き進むオレらしい、と言ってしまえばそれまでだが、ここは胸を張るところではない。

  友だちや家族が同乗しているときにはイライラは起こらない。運転者としての責任が頭をもたげてくるからなのか、話をすることによってリラックスしているからなのかは分からない。このように、時と場合によって心持は変わるのだから答えはひとつではない。それでも、用紙には○か×のどちらかしか書くことができないのだ。それに、この設問に○をすれば何かしら注意や戒めのようなものを言い渡されることは想像に難くない。

  『自分の運転はうまい方だと思う』 なんて設問にしてもそうだ。読んだ瞬間に 『もちろんだ』 と思った人は○をすべきなのだが、皆、自慢みたいで嫌だなと考えるだろう、。我々は明け透けに自慢することを嫌う。いや、運転をする者にとって、法規を守り正確な操作を続けることは当然の義務であり、上手い下手の問題ではないから、自慢するということ自体が間違っている。オレにしても 「運転うまいね」 なんて言われて気持ちよくなっていたのははるか昔だ。それでも約30年間、大きな事故もせずにきたのだ。運転には自信があった。少々自慢してもいいのではないかぐらいに思っていた・・・。さあ、ここで、オレが過去形を強調して使っているのに気付いた人はどれぐらいいるだろう。この部分は “過去形” でなければならない。なぜなら、今のオレは 『運転に自信がある』 という驕(おご)りがどんなに危険なものであるかを知っているからだ。


◆1000kg(1トン)以上のマシンを操っているという自覚はあるか。
◆時速40キロの車が1秒で11メートル、60キロなら17メートルも進むことを知っているか。
◆ブレーキを踏み車が停車するのに、40キロで走っている車なら22メートル、60キロなら44メートルもの距離を必要とすることを知っているか。100キロならば110メートルを超える。


  オレは、こんな当たり前のことすら忘れていた。あまり先走りたくはないのだが、これらはすべて違反者講習で思い起こさせてもらったことだ。ほんのちょっとの油断が車を凶器に変えてしまうことや、一瞬の隙が命取りになる危険を孕んでいることを自覚せずにハンドルを握ってはいけないと、オレは改めて思い知らされた。たとえ何十年安全運転を続けていようと、たった一度の過ちで人生を台無しにしてしまうこともあり得るのが車の運転なのだ。運転に関しての過信は、何よりも先に捨てなければならない。だが、この時点でのオレはまだ改心していない。心の中で 『早く終わらないかな・・・』 と呟(つぶや)いていた。


  話を講習に戻そう。オレは、『当たり前じゃねえか』 と思われるようなものにはすぐにボールペンを走らせ、『当たってる』 と思ってもすぐに○をするには憚(はばか)られるような極端な問いにはちょっと頭を働かせつつ運転適正検査を終えた。ちなみに、この検査の結果は帰り際に渡されたのだが、診断結果はAからEまで五つの項目に分かれていた。そのどれかに印がしてある人は正直な人だ。オレのようにどれにもチェックがなく、表紙に赤○を付けられた講習者は誉められたものではない。周りを見ると多くの人がオレと同じだ。オレたちには真剣さが足りなかった。

A:自分だけが気持ちのいい運転をする傾向がある 「自己顕示性」 を示す
B:相手の立場を考えない自分勝手な運転の傾向がある 「自己中心性」 を示す
C:交通法規、基本を守った運転をしようという気持ちに欠ける 「非遵法性」 を示す
D:せかせか運転、焦り運転の傾向があるとされる 「衝動性」 を示す
E:総合的に交通法規、基本を確実に実行しようという気持ちがないことを示す

  以上が、五つの項目だ。どれを読んでも反省を要することばかりだ。誰もが、痛いところを突かれたと思うだろう。同じ人間だ、似たような弱点があって当然なのだ。交通安全協会の意図は十分に理解できる。人は忘れっぽい動物だ。このように、誰もが理解していながら記憶の外に置かれている大切な事実を繰り返し伝えることが大事なのだ。


  講習は9時から12時まで休憩なしで進んだ。教官は最近の交通事故を例に挙げ、多くのドライバーが陥りやすい欠点を指摘してゆく。見事だ。実際の事故を教訓としての警告には説得力があった。時間はあっという間に過ぎ、時計が昼休みを告げるころには、受講者のほとんどは生き生きとした目を取り戻していた。午後1時からは、いよいよ町に繰り出しての実習だ。オレは、はずかしいという気持ちは捨て切れていなかったものの、どこかで実習を心待ちしている自分に気付き始めていた。オレは腹が減っていた。朝はバナナと牛乳だけだったのだから無理もない。『実習に備えてしっかりとしたものを食べなければ』 オレは、気合を入れて第3教場を飛び出した。 (つづく)

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