最近、たて続けに弟子を得た。はははは、弟子とはちょっと大げさだな。そんなに大仰(おおぎょう)な話ではない。ちょっとした縁で、近所に住む中学1年生にギターを、大学1年生にベースを教えることになったのだ。彼らが弟子ならば、ぼくは師匠ということになる。ギターやベースを教えるのに師匠とは、ちょっと気はずかしい。一般的には先生と生徒というのが自然だろう。それでも、個人的には師弟という言い方も嫌いではない。

  “師弟” とは、経験によって培った知識や技能などを伝授し、伝授される関係のことだ。伝える側を師匠、授けられる側を弟子という。この “伝授” という言葉もいい。この語の響きには何か奥深いものが感じられる。“教える” とはニュアンスがまったく違う。一方通行ではない。そこには、大切な場所へ導くような神聖さや、宝物をそっと手渡すかのような優しさもが内包されている。

  力士や落語家、または、伝統文化を継承する人たちにとって、師匠は絶対的な存在だ。『白いものでも、師匠が黒と言えば黒』 という世界は極端だとも思うが、この言葉を額面通りに受け取ってはいけない。彼らの世界では、師匠とは弟子の生活のすべてに責任を持ち、将来への道を的確に示すことを義務付けられた責任ある存在なのだ。故に、師匠と言われる人は人格者でなければならない。この時点でぼくには到底無理だと思われる。それに、ギターやベースを教えるのに、このような関係を築くというのはむずかしい。ロックには尖った部分も必要だからだ。師匠という呼び方には保守的な雰囲気も漂う。

  技術の伝達だけならば、先生と生徒の方がうまくいくのではないだろうか。単に技術を教えるだけなら、世に広く出回っている教則本や音楽学校の教材を参考にしたレッスンをすればいい。そのようなレッスンをする先生ならたくさんいるだろう。だが、ぼくはそうしようとは思わない。せっかく縁あって手ほどきをすることになったのだ。彼らには、音楽の楽しさを、音を合わせることの喜びを、基本の大切さを、続けることの尊さをぼくなりの方法で伝えてみたい。楽器の習得には、“心構え” や “取り組み方” など精神的な部分が大きな割合を占める。結局のところ、どのような呼び名であれ、伝えてくれる人への尊敬と、教えを受け入れようとする人への敬意が大事だということだ。生徒であれ、弟子であれ、できる範囲で面倒をみてあげたいと思う。プロになることが第一ではない。彼らには、一度手にした楽器を生涯の友としてほしい。楽器の習得は10年単位だと、ぼくは思っている。自分の意図した音を紡ぎ出せるようになるには、それだけの時間と修練、そして、経験が必要なのだ。

  ベースを手にしてから30年、プロになってから25年が過ぎた。大小様々なステージに立ち、延べ数千曲を演奏してきた。今、『プロとして一番大切なものは何か?』 と問われたら、迷わず “経験” だと答える。ひとつひとつのステージの積み重ねが、プレイヤーとしての今の自分を形作ってくれたのだ。経験を重ねるには長い道のりが必要だ。彼らには、数年先の自分を信じて音を出すことを楽しみながら、一歩一歩進んで行ってほしい。


  ぼく自身、どれほど練習をしてきたかというと、この点に関しては、あまり自信がない。本当の意味でベースと向き合い始めたのは35歳を過ぎてからだと思えるからだ。ならば、それまでは何だったのだ?と問われると、これまた答えに窮してしまう。確かに一生懸命やってはいた。どうしたら自分たちの音楽を世に出すことができるのか、どうやったら自分の “音” を確立できるのか、日々、向上心を持ちながら過ごしていたのも事実だ。それでも、今から思うとやはり甘かった。もっとできたと思うし、より広い世界に触れることができたはずだ。歳を重ねると、誰もがこのように感じるようになるのだろうが、そうだとしても後悔するのではなく、事実として客観的に捉えておきたい。


  初めてベースを手にしたという方にいくつかアドバイスをしよう。まずは持ち方だ。最初は椅子に座った方が弾きやすいと思う。ボディーの形は、エレキ・ベースの元祖プレシジョンベース、あるいはジャズベースのように、女性のボディーラインを模したものが一般的だ。そうでなくとも、フライングVのように特殊な形のものでなければだいじょうぶ。椅子に座ってボディーのくびれの部分を右太ももの上に乗せてみる。不思議と安定する。この時、ネックが斜め上に伸びた形になると理想的だ。ネックが下がって地面と平行になったとしても問題はない。

  次に、ベースを抱えたまま、両手を前に出して右手と左手の指を合わせてみよう。親指と親指を、人差し指と人差し指を合わせる。中指、薬指、小指も同じようにする。そこで、一気に10本の指に力を入れるのだが、さて、指をどのような形にしたら一番力が入るだろうか。指の腹と腹を合わせた “山の形” と、指先と指先を一直線になるように結んだ “球体の形” とを比べてみよう。力を入れてみると、その差はあきらかだ。球体の形の方がはるかに大きな力を注ぐことができる。その形のまま手を離し、右手はボディーの中心、ピックアップの上辺りに、左手はネックを掴む位置に持っていく。そうだ、この形がベースを弾く上で最も理想的な形なのだ。球体で思いつくのは地球だ。地球を象(かたど)った手でベースを弾く。これをロマンチックと言わずして何と言うのだ。

  右手は卵を緩く握ったような形になる。そのまま親指をピックアップ、あるいは一番太い4弦に乗せ、人差し指と中指で3弦と2弦を弾いてみる。ベースの基本フォームである2フィンガーのスタイルだ。左手の親指はネックの裏にしっかりと付け、他の4本の指を支える。この4指は、ネックに対し平行に “置く” のではない。垂直に “突き立てる” 形をとる。ベースの太い弦を上からしっかりと押さえるためだ。この “押さえ” が何より重要だ。可能な限りの力を指に集め、その力で弦を押さえ込まなければならない。この形を作ることからベースのレッスン(修行)はスタートするのだ。


  どんな習い事でもそうだが、基本が大切なのは当たり前だ。誰もがそう思っている。しかし、その “基本” が正しくなければ “基本” の意味はないし、理に適(かな)った自然体の形を身に付けなければ “真の音” を得ることはできない。次の一歩は正しい “形” から生まれるのだ。ふたりの生徒(時々弟子)たちも、この形を作るところから始めた。彼らは自由にならない指に、もどかしさを隠せない。必死に、懸命に、ギターやベースと向き合っている。この姿をこそ、ぼくは学ばなければならない。こんな時、ぼくは、師匠と弟子は同義語でもあるのだと噛みしめる。

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