将棋の遊び方は小学校のときに一通り覚えた。当時は、将棋もキャッチボール同様、家族や友だちとの大事なコミュニケーションツールだった。将棋ならば親父はもちろんのこと、じいさんたちの世代とも時間を共有することができた。親父やじいさんにとって勝負は二の次だったろうが、オレは本気で負かしてやろうと意気込んだ。だが、勝ったのか負けたのかなんてことはまったく覚えていない。それ以上に重要なのは、大人と対等な時間を持てている、対等な空間の中にいるといった満足感に浸れることだった。事実、思い出してみても、まぶたに浮かんでくるのは、盤を挟んで対峙した楽しげな映像だけだ。自尊心とは、このようにして育(はぐく)まれて行くものなのだろう。
『将棋の駒なんて、もう、ずいぶん触ってないなあ』 オレは、懐かしさと共に将棋盤の前へ進んだ。誰にでも簡単にできる “はさみ将棋” をするのだろうと思いきや、タローの所望は
“本将棋” だった。本将棋ができるのか、と伯父としても昔の小学校3年生としてもうれしさを隠せない。オレは、にやにやと駒を並べ始めた。本将棋は駒を並べること自体が楽しい。「王将」
「飛車」 「角行」 「金将」 「銀将」 「桂馬」 「香車」 「歩兵」。これら8種類の駒を使って相手の王将を奪い合う。8種の駒は、それぞれが独自の動きをする。個性的な駒が、縦横9マス×9マス、計81マスの盤の上を縦横無尽に動く。タローと昔の小学校3年生は一手、二手と駒を進め、一進一退の攻防を見せた。駒の動きの組み合わせは無限だという。トランプにおけるジョーカーのように
“万能” の駒がないところもいい。駒は、野球やサッカー等スポーツのポジショニングやオーケストラの配置にも例えられる。数年前のジャイアンツは、1番から8番まで
(9番はピッチャー) 8人の4番バッタータイプを揃えた。8人がスラッガーというとんでもない構成だ。だが、勝てなかった。様々なタイプの選手がいてこそのチームなのだ。チームでは、多様な人材を活かしてどれだけ総合力を高められるかが問われる。オレの会社にしてもそうだ。個性的なやつらがそれぞれの業務を果たしてくれている。ジャイアンツは、その反省から適材適所の魅力あふれるチーム作りを進めている。
タローは覚えたてにしては駒をよく操る。オレは、昔からたいして強くはなかったからいい勝負になった。次第に感覚を取り戻したオレは、本気で勝ちに行った。そして、ついにあの言葉を口にするときが来た。オレは高らかに声をあげた。
「王手!」 (さて、どうでるか・・・)
タローは、冷静に王手を防いだ。オレは、続けざまに王手を重ねていく。『う〜ん』 タローは真剣だ。そして、何度目かの王手で勝負は決した。
「あ〜あ、負けちゃった・・・」
「えっ?」
拍子抜けとはこのことだ。オレはとまどってしまった。タローは考えに考え抜いた末、素直に負けを認めた。1年前のタローだったら、負けと分かった時点で駒をぶちまけて泣き出したに違いない。いや、その前に、『それ待って』
とオレの手を無理やり変えさせたはずだ。これを成長と言うのだろうか。正直に言うと、タローが相手であっても王手の連続で勝ちを収めたオレはかなりうれしかった。だが、予想外の反応に不意をつかれ、その喜びは一瞬にして吹っ飛んでしまった。
タローは、オレを相手に何をするか計画を立てていた。野球、サッカー、将棋 (本将棋、はさみ将棋、周り将棋)、現代のベーゴマ (ベイブレード)、ビー玉、テレビゲーム、カードゲーム、相撲。将棋を3種類と数えると10種類もの項目があがる。タローは、オレの
“実力” を知っている。いや、この場合、真の意味での実力ではない。オレが、タローを相手にどのくらいの力を出すかということを知っているのだ。本気でやられたら適(かな)わない、と思っているのは相撲だけだろう。確かにそうだ。野球にしてもサッカーにしても外で遊ぶのは圧倒的に分(ぶ)が悪い。テレビゲームやカードゲーム等はやる前から結果は見えている。相撲だけは、オレが本気ではなく適度に手を抜くということを知っているのだ。だが、オレもやられっぱなしではない。時には本気で倒しに行く。タローにとって未知数なのは、オレの将棋の実力だけだった。タローの心に10項目の中のひとつくらいは勝たせてやってもいいという余裕が生まれたのだろうか。いや、もしかしたら、すべての勝負で自分が勝ったらエーガがかわいそうだと本気で思ったのかもしれない。そうであるならば、成長とはまた意味が違ってくる。いやいや、それもまた成長の形ではないか。もう少し見守る必要がある。
負けを潔く受け入れたはいいが、それでも “負けの状態” は一刻も早く抜け出したかったようだ。タローは、間髪入れずに言った。
「次は、はさみ将棋ね」
今度は、負けないぞという気迫が伝わってくる。自信満々のタローは実際に強かった。3度勝負して、
オレは1回しか勝てなかった。3種目は、周り将棋だ。金将4枚がサイコロ代わりをする。駒を角のマスに置いて、4枚の金将を振る。盤の上に落ちた4枚の絵柄によって数が決まり、その数の分だけ駒を進める。4枚のうち、1枚が表、3枚が裏なら
「1」 表が3枚、裏が1枚なら 「3」 という具合だ。駒が立つ場合がある。将棋は駒の五角形が素晴らしい。側面が立つと 「5」、底面が立つと 「10」、天面が立つとなんと
「1000」 だ。4枚とも裏なら 「20」。「3」 と 「5」 と 「7」 の場合は、もう一度振れる。(七五三は演技がいいからだろう) 歩兵から始まって1周すると駒を香車に変え、そのまま桂馬→銀将→角行→飛車→王将と続き、王将で最初にゴールした者が勝ちだ。ゴールは盤の中心だ。角は4つあるから、4人まで遊べる。ただ、この遊びには弱点があった。ゴールするまでに時間がかかり過ぎることだ。大事なこの日に、周り将棋だけ多くの時間を費やす訳にはいかない。
「王将からやろうよ」
オレは、ほくそ笑んだ。タローにとってもこのゲームは長く感じるらしい。やはり大事なのは経過よりも勝敗のようだ。かなり端折(はしょ)ることになるが、同感だ。オレは周り将棋が得意だった。金将を振るときに駒を立てるのがうまかったのだが、あまりにも感覚が鈍っていた。どうにもうまくいかない。盤から一駒でも落ちたら
「0」 なのだが、オレは狙いすぎて 「0」 を繰り返してしまった。タローの圧倒的な勝利だった。
「よ〜し、次はマリオだ!」
32型の大型テレビに Wii が繋がれた。ふたり用の画面が映し出されると、タローはオレにコントローラを渡して使い方を説明し始めた。
「ここを押すとジャンプね。これは走るの。分かった?」
まあ、だいたいのことは分かるが、分かったとしてもどうしようもない。オレは、10代の頃に夢中になったインベーダーゲームでさえ最高9980点の男だ。勝つどころか、動かすことで精一杯だ。
「よし、始めるよ!エーガ、来て!走って!だめだめ!遅いと死ぬよ!ああ〜〜!何やってんだよ〜!ああああ〜」
このゲームはもちろん勝負なのだが、ふたりで協力し合って敵を倒すという要素もある。最初は気遣ってくれていたのだが、あまりの不甲斐なさにイライラしてしまったようだ。無理もない。オレがタローでも愛想を尽かす。
「あああ、エ〜ガ〜・・・エーガはもういいから、ただ付いて来て!あああああ!今は何もしなくていい・・・あ〜あ、だから言ったでしょ。こっちまでやられちゃったじゃないか〜」
それでも・・・タローは、オレがまったく相手にならないと分かっても、画面から目を離さない。コントローラを持ったら最後、画面の敵との真剣勝負だ。子供たちは、どんなことに対してでも、この真剣さで、直向(ひたむき)さで向かって行く。多くの大人たちは自分が小学校3年生だった頃を思い出すべきではないか。
さて、オレが操るマリオの相棒はというと、どうやっても、何度生き返ってもすぐに死んでしまうから、タローの分身マリオを見ているしかない。オレは、一息入れてお袋が無言で差し出したお茶をすすった。タローとの時間は始まったばかりだ。 (つづく)
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