タローの化身、マリオは32型のテレビの中で孤軍奮闘していたが、とうとう力尽きた。ひとつの場面をクリアすると、次々とステージが変わって行くおもしろさは理解できるが、昭和の男としては、テレビゲームが子供たちの健全な遊びとは到底思えない。古いと言われればそれまでだが、もっとおもしろいことがあるのに、と歯がゆくてならない。何?もし、今、オレが小学校3年生だったとしたら?はははは・・・。分かり切ったことを聞くな。喜び勇んでマリオをやっているに決まっているではないか。そんなことは百も承知だ。だが、オレたちがそれを口にしないで誰が言う。いつの世にも煙たがられる存在は必要だ。今、その役目を担っているのがオレたちの世代なのだ。タローも40年後には、同じようなことを言って 『めんどくさいな〜』 なんて疎まれるに違いない。

  オレたちが子供の頃、遊びは自分たちで “考える” ものだった。年長者を中心に内容を決め、ルールを決めた。リーダーは、すべてのメンバーの力量を把握していた。バランスよく組分けし、チームの中では、年上の者が年少者の未熟を補った。時には、冴えない遊びや危険な遊びになることもあったが、自分たちで軌道修正したものだ。遊びを考える作業は、“創作” であり、“創造” であり、“演出” だった。統率力やチームワークが培(つちか)われただろうことも疑いない。


「よ〜し、次はカードゲームね!!」

  タローの遊びに対する情熱や向上心は衰えることを知らない。今度は、部屋を変えての勝負だ。オレたちは居間から奥の和室へと移動した。タローはオレを座らせると、自分も胡座(あぐら)をかいて座った。そして、カードを手に取り、無言で配り始めた。時々チラチラとカードの中身を確認している。欲しいカードがあるらしい。タローは、オレの反応を確かめながら、カードを配っていくが、交互にではない。気持ちはよく分かる。どうしても勝ちたいのだ。タローの眼を見ながら、オレは、再び、ヤスシとの出来事を思い出した。


  40数年前のある雨の日、オレは、ヤスシ相手に悪戯(いたずら)をすることにした。そして、トランプのカードに予(あらかじ)め細工をしてからヤスシを誘った。

「ヤスシ、“せんそう” やろっか!」

「うん!!」

  ヤスシは満面の笑みを浮かべた。うれしくてたまらない様子だ。オレは、内心笑いが止まらなかったが、冷静な顔をしてトランプを配り始めた。“せんそう” は単純なトランプゲームだ。ふたりから遊べる。すべてのカードを人数分配り、せえのでカードを一枚ずつ出す。場に出たカードの中で、一番大きい数のカードを出した人が他のカードをすべて取れるという単純な遊びだ。同じ数字の場合はもう一枚、次のカードで勝敗を決する。勝ち負けがはっきりしているから子供にも分かりやすい。

  オレは、ヤスシに声をかける前にカードを26枚ずつふたつに分けた。ひとつの山には 「J(ジャック)」 「Q(クイーン)」 「K(キング)」 すべての絵札と 「A(エース)」 「2」 「3」 を、もうひとつの山には 「10」 「9」 「8」 「7」 「6」 「5」 のカードを集めた。言うまでもなく 「エース」 が一番強い。余った 「4」 は2枚ずつ分けた。もう、お分かりだろう。オレは、自分の手に絵札とエース、そして、小さな数が来るようにふたつの山のトランプを交互に重ねたのだ。兄とふたりでトランプをすることになったヤスシは、うれしさを隠せない。飛び跳ねるようにして座った。トランプをシャッフルする(切る)なんてことは思いも浮かばなかっただろう。オレは、澄ました顔でカードを配った。試合開始。

「せ〜んそぉ!」

  声を揃えた。合い言葉と同時にカードを一枚ずつ出した。どのカードから出してもいい。ヤスシ 「8」、オレ 「3」、ヤスシの勝ち。ヤスシ笑顔。

「せ〜んそぉ!」

  ヤスシ 「6」、オレ 「2」、ヤスシの勝ち。ヤスシ笑顔二重丸。

「せ〜んそぉ!」

  ヤスシ 「9」、オレ 「4」、ヤスシの勝ち。ヤスシ三連勝、得意顔。

「せ〜んそぉ!」

  ヤスシ 「7」、オレ 「3」、ヤスシの勝ち。ヤスシ四連勝。笑いが止まらない。

「せ〜んそぉ!」

  ヤスシ 「5」、オレ 「4」、ヤスシの勝ち。ヤスシ五連勝。顔中くしゃくしゃだ。ヤスシは、オレを相手にここまで勝ち続けたことなどなかった。うれしかったに違いない。結局、ヤスシはそのまま十連勝した。正確に言うとさせられたのだが・・・。オレに仕組まれた無理やりの十連勝だったが、保育園児のヤスシにとっては夢のような時間だったはずだ。そんなヤスシの夢をオレが砕いてしまった。

  小学校2学年のオレは残酷だった。ヤスシにとっては、最悪の時が待っていた。オレの手札の中には、「2」 と 「3」 は四枚ずつしかない。「4」 二枚と合わせても “弱い” カードは十枚だけだ。突然、ヤスシの連勝は終わりを告げた。

「せ〜んそぉ!」

  ヤスシ 「10」、オレ 「A」、オレの勝ち。これ以上は何度勝負してもオレの勝ちだ。『くくくく・・・』 オレは忍び笑いを殺すので精一杯だ。ヤスシはというと・・・。歯車が狂ったようにいきなり連敗だ。さっきまでの勝ちは何だったんだろう?と不思議そうな顔をしている。理由なぞ分かる訳がない。ヤスシはぐずり出す。それでも次は勝つぞと力が入る。

「せ〜んんそぉ!!」

  ヤスシ 「6」、オレ 「K」、オレの勝ち。ヤスシはもう我慢できない。それとも、さすがにオレのズルに気付いたか。おきまりの・・・天にも届く・・・あれが・・・出た!!

「びええええええええ〜〜〜ええええ〜ん!!!」

  一呼吸あって・・・

「うわあああああ〜〜〜ああああ〜ん!!!」

  この世の終わりの号泣だ。さすがのオレもやばいと感じた。

「ヤスシ、ヤスシ、ごめんね!」

  必死に謝るのだが、収まる訳がない。誰でもこんなことをされておとなしくしていられるはずがない。ヤスシの屈辱は慟哭となって天を貫いた。


  ヤスシ、ごめん・・・。今でも謝りたい。ひどいことをしたものだと思う。悪戯とはいえ、いじめのようなものだ。情けも容赦もない仕打ちだった。だが、子供とはそういうものなのだ。ヤスシがこのことを覚えているかどうかは分からないが、今度、『ヤスシ、戦争でもやるか』 と誘ってみようと思う。絵札とAすべて渡してもいい。存分に勝ってもらいたいと思うが、あまりにばからしいと相手にしてもらえないのが落ちだろう。


  兄弟とは、つくづくおもしろい関係だと思う。法律上、親は一親等、兄弟は二親等だが、対個人で考えてみると、お袋とオレの血の関係は50%、親父とオレの場合も50%だ。だが、オレとヤスシはというと、直接、血のやり取りはないものの、お袋と親父から50%ずつもらっているから、単純計算で足してみると100%ということになる。厳密にいうと、こんな計算が成り立つはずはないのだが、何となく、親よりも近い関係の “生き物” なのではないかと感じてしまうほどの存在なのだ。DNAや血液型の問題はさておいても、兄弟は似ていて当然なのだ。分身だと言ってもいい。

  ここまで話したついでに、もうひとつ打ち明けておかねばならないことがある。オレとヤスシは、中学生の頃から共有しているものがある。パンツだ。ズボンのパンツではない。下着、猿股(さるまた)のことだ。中学生になると身体のサイズは、ほぼ変わらなくなった。それからというもの、何故か、今の今までパンツは共同で使っている。何?、なんてことを言うんだ。当たり前じゃねえか。いくら臭い仲と言っても洗ってあるパンツに決まっているではないか。それから、言っておくが、兄と妹、そして、姉と弟の場合は、想像すらしてはいけない。


「エ〜ガ〜、ビー玉やろっか」

  興が乗らなかったのだろうか。突然、タローが切り出した。ビー玉なら、オレにもできる。もちろん、返事はイエスだ。

「おっけい!やるか!」

  タローがビー玉を箱から出した。ビー玉の美しい輝きは今も昔も何も変わらない。この小さな玉のキラキラが、小学校3年生だったオレの空の色だった。  (つづく)

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