50歳を過ぎると予想もしていなかった心の変化に驚くことがある。50歳は、49歳の次の1年であり51歳のひとつ前の年に過ぎないという言い方もできるが、どうにも雰囲気が違う。やはり、人には区切りというものが必要らしい。以前、1年が365日でなかったらという主旨のエッセイを書いた。人は、自分を律する強い精神力を持った人は別として、楽な方へ、楽な方へと流されて行くものだ。人生最大の区切りとも言える50歳。たどり着いてみるとこんなにも見晴らしのいいものだったのかと眼からうろこの毎日だ。
少々大げさなのは大目に見ていただくとして、心の中で何かが大きく変わったのは事実だ。50歳という転機を迎えたということと同時に、1000年に一度の大震災を経験したということも大きな要因となった。『生きるということはどういうことか』
このように感じたのはぼくだけではないはずだ。日本人の誰もが横っ面を張られた感覚を抱(いだ)いたに違いない。
大きな変化のひとつは、“必要なものだけあればいい” と思うようになったことだ。それが、旭市を訪れた後だったか、誕生日を迎えたころだったかは定かではないが、4月20日を過ぎたころには
“もの” にあふれ足の踏み場もなくなった自室を眺めながら、一日も早くすっきりさせたいという衝動を抑えきれなくなっていた。ゴールデンウイークのうち、2日連続でスケジュールが何も入っていない日があった。貴重な2日間だったが、この2日間を使って部屋の大改造を敢行することにした。部屋に眠る膨大な
“もの” の量からして1日では到底足りない。
模様替えや整理などというなまやさしい言葉は、はなから頭になかった。自分自身の持ち物との格闘だと思った。垢落としと言ってもいい。自分は今、何を持っているのか、何を捨てるべきなのか、何が必要なのか、何が不必要なのか。自分自身を見つめる作業でもあった。ただ、無闇に部屋から荷物を出すことは避けた。すべてを広げる場所などない。ひとつひとつ順にやっていかなければゴールは見えない。まずは、本の整理から始めることにした。男にとって本は特別なものだ。今までは、読んだ本を捨てるなんて考えられなかった。それでも、心のどこかに、男はなぜ本に執着するのだろうという疑問があったことも事実だ。自分はこれだけの本を読んだのだという自負の誇示なのだろうか。男と本には本能的な、あるいは心理的な関係が横たわっている。
最初が肝心だ。『見せしめだ。本に犠牲になってもらおう』 等という妙な覚悟があったからおもしろい。とにかく、決意も新たに本の分別を始めることにした。既に読んだ本もまだ読んでいない本も関係なく、今、読みたいと思う本と今後読むであろう本を残してあとは処分することにした。比較的きれいでまだ価値のありそうな本は古本屋に持っていけばいい。生徒たちにも数冊ずつ分け、誰も読みそうにない本は資源として紙に還すことにした。文庫本の中には中学生のときに背伸びして買った
『若きウェルテルの悩み』 がある。高校時代に夢中になった 『青春の門』 がある。20歳のころ心酔していた作家・吉川英治の 『三国志』 がある。思い出の本であっても、今後読まないだろうと判断した本は、かわいそうだがもう部屋には戻れない。結局は、600冊あまりを古本屋に持っていくことにした。100冊を生徒たちにもらってもらい、200冊ほどが本棚に戻った。これからは、闇雲に本を買うことはしない。読み終わった本も必要に応じて行き先を決めていこうと決心した。
押入れの奥にしまい込んで20年近く開けたことのない段ボールが3箱あった。レコードだ。引越し時にレコードプレーヤーを処分したため、しまったままになっていた。かびていないかと心配しながら箱を開けてみた。ジャケットがちょっとだけざらざらしていたものの染みはなく、しけってもいなかった。レコード盤もきれいなままだ。久しぶりに手にしたレコードの存在感は感動的ですらあった。この点では、CDなどは比べ物にはならない。ましてやデータとして持ち歩くアイポッドは問題外だ。何年ぶりかに触れたレコードは、言葉にするのもむずかしいほど魅力的だった。初めて買ってもらったLP 『ウィーン少年合唱団』 は2枚組だ。中学生のころ買ったビートルズの 『アビーロード』、クイーンの 『オペラ座の夜』、キッスの 『地獄』 シリーズ。絶対に捨てられないこれら思い出のレコードは取っておくことにして、もう聴かないだろうと判断したレコードは、古レコード屋とレコードプレーヤーを持っている生徒の4畳半行きとなった。ロックやソウルのレコードに混じって、20歳のころ訳も分からずに買ったコルトレーンの 『至上の愛』 とミンガスの 『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』 が出てきた。この2枚は部屋のベストポジションに飾られることとなった。
ジーンズやTシャツ、ジャケット類も誰かの手に渡ることになった。その他、すべてのものをチェックし、必要なものとそうでないものをひとつずつ分けていった。休憩は食事をするときだけだ。ふらふらになると布団にもぐりこんだ。そうして、2日はあっという間に過ぎ、燃えないゴミを入れる分別用の袋、Lサイズが7袋はち切れんばかりとなった。
たまたま読んでいた本の中に “捨万求一” という言葉があった。今のぼくには反射的に響く言葉だった。『求めるものはひとつ、それ以外のものは捨ててしまえ』
ということだ。ぼくたちは、これから “足るを知る” 生活をしていかなくてはならない。年を重ねるということは、シンプルな美しさを愛するようになるということでもある。本当に必要なものだけを大切にしていく生活、そんな50代を目指したい。そして、本物を見極める眼を養っていきたいと思う。ぼくは、コルトレーンの
『至上の愛』 のレコードジャケットを愛でながらCDの 『至上の愛』 をかけた。コルトレーンのサキソフォンの音色が、本物とは何かを語りかけてくるような気がした。
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