現在2011年5月30日午前3時半、外は雨が降り続く。蒸し暑いから窓は開け放したままだ。窓際に置いてある温度計は18℃を指している。ちょっと肌寒いが作業をするにはちょうどいい。音楽の代わりに雨音というのもなかなか乙なものだ。このようにエッセイを書く環境は整っているのだが、肝心の頭の中がうまくない。集中できないから目に付いた本を捲(めく)ってみたり、楽器を触ってしまったりで筆がまったく前に進まないのだ。机に向かって早3時間が経ってしまった。堂々巡りの感が否めない。

  こういう状態にいると、ものを書くのにも集中力が必要だということがよく分かる。体力、気力が充実していてこその表現なのだ。ここ数ヶ月は、何年ぶりだろうと思えるぐらいの忙しさの中にいる。忙しいという言葉は、言い訳っぽくてあまり使いたくはないのだが、忙しいこと自体は悪いことではないので堂々と使わせてもらうこととして、さて、忙しさとはいったい何だろう。簡単に言うと “自分が使える時間” よりも、“やらなければならないことに費やす時間” の方が多くなってしまう状態のことだ。能力と仕事量のバランスが崩れた状態と言ってもいい。

  エッセイは10日ごとだから “5” のつく日が過ぎると自然に何を書こうかと考えるようになる。頭の中で少しずつ組み立てておいて “8” がつく日か “9” がつく日にまとめて書くことがほとんどだ。題材さえ決めておけばすんなりと入れるのだが、書くことが決まっていないと少々苦労することになる。1編を1時間や2時間で書ける訳がないのだから、前もって書く時間をキープしておく必要がある。ただし、キープしておいてもすんなり書けるとは限らないし、今回のように忙しくてこの時間を確保できないときもある。

  忙しくても書きたくないという気持ちにならないのは、5年半の積み重ねが後押ししてくれるからだろう。もちろん、責任感もある。それに何と言っても、エッセイはぼく自身の楽しみでもあるから、どうにかして形にしたいという欲求は抑えられない。頭の中が飽和状態に近いのならば、そんな状態で書いてみるのも新たな “挑戦” だと開き直って言葉を連ねてみようと思う。もうすぐ6時だ。音楽をかけることにしよう。アイポッドをシャッフルにしたら、グランド・ファンク・レイルロードの 『ミーン・ミストリーター』 がかかった。1970年にリリースされたライブアルバムからだ。メル・サッチャーの歪んだベースがかっこいい。

  ぼくの生活の中心は言うまでもなく音楽活動だ。音楽活動といっても内容は様々だ。レコーディングスタジオで演奏するときやセッションミュージシャンとしてステージに立つときは “職人” だ。積み重ねてきた経験と通ってきた道の重みがものを言う。ぼくの場合は、35歳を過ぎたころから職人としてプレイすることが真の意味でおもしろくなり始めた。

  生徒たちの前では “師範” だ。教えることは勉強し直すことでもある。ベーシストを目指す彼らとひとつひとつのフレーズを掘り下げて行く。楽器を、音色を、グルーブを、音符の長さまで細かく研究する。常に新たな発見があるからおもしろい。音楽のことだけではない。ぼくはバンド活動に付随した生活全般に関しても、自分の経験を踏まえてアドバイスできることには口を出す。多くのミュージシャンの生き様を見てきたから、ある種の傾向が分かるのだ。スピーカーからは 『名古屋甚句』 が流れている。

  少々口幅ったいが、バンド活動をしているときは “芸術家” でなくてはならない。音楽家として最も生きがいを感じる時間だ。個人ではなく、複数の人間が集まってものを作り出す作業は、化学反応に例えられることがあるがまったくその通りだ。思考錯誤の末に曲ができ上がったときやライブで一丸となれたときの喜びはあらゆる言葉を越えてしまう。音楽家冥利に尽きる。もうすぐ8時だ。そろそろ仕上げに取り掛からなくては。フォーリナーの 『フィールズ・ライク・ザ・ファースト・タイム』、ジャクソン5の 『ザ・ラブ・ユー・セイブ』 に続いてピンク・フロイドの 『原子心母』 がかかった。これも1970年の作品、名作だ。

  “職人” “師範” “芸術家” としての毎日を送れるのだったら、忙しくても本望だ。大切にしている趣味もある。文章もしかり。これらは、すべてエネルギーの伝達だ。そのためには気力、体力を充実させていかなくてはならない。今後の大きなテーマであり “挑戦” だ。それにしてもよく降る。今年は、水不足の心配はなさそうだ。

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