今年の2月頃、ふと、手にした市報で市民農園貸出の記事を見つけた。市が農家から使用していない畠を借り、それを市民に割安の価格で貸してくれるというものだ。畠は、市内16ヶ所にある。区画数はそれぞれで、10数区画のものもあれば100区画を超えるものもある。期間は3年間。『う〜ん・・・』 土に触れたいという欲求がぴくぴくっと疼く。同時に心の奥底から 『現実を見よ』 という声も聞こえてくる。そんな時間があるのか。ぼくたちの世代の誰もがそうであるようにスケジュール帳はぎっしりだ。1日24時間をどうやって割り振ろうかというほど “やること” が満載なのにそんな時間を作ることができるのか。

  源氏物語のころから使われている “忙しい” という言葉は、あえてここでは使わずにおきたい。“忙” という字は 『心を亡くす』 と書く。どんなにやることが多くとも、心を亡くすようなことはしていないと思うからだ。ひらがなで 『いそがしい』 と書いても 『せわしい』 と書いても窮屈さは変わらない。どれもこれもが自分で選んだことばかりではないか。やりたくてやっているのだから、“甲斐” こそあれ、心を亡くすなんてことはありえない。「本当に心からやりたいことばかりか」 と問われればそうではないかもしれない。それでも、どんな状況であっても楽しんじゃおうという気持ちさえあれば、おもしろさを見つけるのは簡単なことだ。問題はどんなにやりたいことであったとしても現実的に時間を見つけることができるかということだ。ぼくの好奇心は妥協を許さないが、時間には限りがある。

  申し込めるのは1ヶ所だけ。応募数が多ければ抽選となる。家から通える距離の畠は何ヶ所かあったが、川沿いの畠がいい。約70区画で、一区画が3m×5mの15平米だ。20万人もの市民がいるのだから当選する確率は低いに違いない。ダメもとで申し込んでみよう。当選したらしたでどうにかなる。ぼくは、往復はがきに必要事項を明記してポストに入れた。

  1ヶ月ほど経ってから郵便箱に見慣れた文字を発見した。ぼくの筆跡だ。「来た!」 胸躍らせてはがきを裏返してみたが残念なことに落選だった。『16番目の補欠』 と書いてある。当選した中の16人が辞退したら、繰り上げで当選するということだ。畠をやりたくて申し込んだ人ばかりだろうから16人もが辞退するとは考えられない。今は、やるときではないってことだと自分自身を納得させながらも、次の機会は必ずや、とここでも前向きな姿勢は崩さない。

  父の実家も母の実家も農業を兼ねていた。母方の祖父母は近くに住んでいたから、ぼくは生まれて間もないころから畠や田んぼに連れられて行ったそうだ。祖父は、役場を退職後、町会議員をしながら農業をやっていた。農作業は大変だ。慢性的に人手が足りない。ぼくの両親は、週末になると作業に駆り出されていたらしい。せっかくの休みなのに肉体労働はきつかっただろうと思うが、当時はみんながそうだった。作業中、生後間もないぼくは、畠や田んぼのあぜ道に置かれた籠に入れられていた。籠の中に寝転んで空だけを見ているなんて、うらやましくてならない。今は、真似をしようにもぼくが横たわれるほどの籠がない。この世に登場したばかりのぼくは、母がおっぱいを与えに来てくれるのを待ちわびながら空だけを見ていた。ぼくの目に東総の空はどう映ったのだろうか。近くには、母がいて父がいた。祖父祖母、叔父叔母がいた。太陽は高く風が心地よく頬をなでる。漂ってくるのは土の匂いだ。大地の匂いを胸いっぱいに吸い込みながらぼくは育った。

  赤ん坊のころは農作業の傍らで寝ているだけだったとはいえ、4月生まれのぼくは、田植えから稲刈り、脱穀までの一連の作業に0歳のときから参加した。小学生になると、土曜日は決まって学校から直接祖父母の家に向かった。それでも、農作業の戦力としてはいささか頼りなかった。興味があるのは当然遊びだけだ。みんなが農作業をしている間、ぼくは弟や友だちと野を駆け巡った。そして、中学生になると野球一色の毎日が始まり畠や田んぼからは遠のくことになった。というわけで、ぼくは、12歳まで田畑のそばで育ちながら農業の知識は何も得ずに来てしまった。何をいつ植えるのか、種なのか苗なのか、知らないことだらけだ。それでも、ぼくの五感は土の匂いや味を覚えていたらしく、上京して住む場所を探すときも無意識のうちに土を求めていたようだ。思い起こすと、住んだ地はどこも近くに畠があり川があった。

  5月も半ばを迎えようかという頃、市役所から電話があった。「市民農園ですが、補欠で当選しました。いかがなさいますか?」 いかがなさいますか、って答えはひとつしか用意していない。ぼくは、次の日、印鑑証明を持って市役所の 『生活文化スポーツ部農政課』 へと向かった。 (つづく)

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