2006年6月9日、サッカーのワールドカップが始まった。ご存じの通り4年に1度行われるサッカー世界一を決める大会だ。1930年の第1回ウルグアイ大会から数えて今回は18回目、オリンピックよりも人気があると言われている。サッカーはスポーツの中でも人気が高く数多くの国で行われている。なぜサッカーがこんなにも広がったのか。理由は簡単だ。まずサッカーボールさえあればできるということ。そしてルールが簡単だということ。あとは場所さえあればいい。11人ずつの2チームで行われボールを蹴って相手のゴールに入れれば1点、一定の時間内により多くの得点をあげたチームの勝ちだ。ボールは手で触れてはいけない。手以外なら頭、顔、肩、胸、腹、腰、体のどこを使ってもいい。とにかくボールを運んで相手のネットを揺らせばいいのだ。 ワールドカップに出場できるのは現在は32チーム、100数十カ国がエントリーするのだからこの32チームに入るのは大変だ。日本がワールドカップに出場するのは3回連続3回目だが少し前までは夢のような話だったし、今でもアジア予選を勝ち抜くのさえ至難の業だ。韓国、北朝鮮、中国は言うに及ばずイランやサウジアラビア等の中東のチームもほとんどが強い。更にソ連崩壊後、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン等の国々がアジア予選に出場するようになった。これだけ多くの強国がありながら今回アジアから出場しているのは日本、韓国、イラン、サウジアラビアの4カ国のみだ。(ちなみにヨーロッパ予選では出場51チーム中14チームが、南米に至っては10チーム中4チームが出場している。大会の成績によって加味される。)厳しいことに次回、19回大会からはオーストラリア、ニュージーランドのオセアニアの国もアジア予選に出場することになった。ここで今回、我日本が勝ち抜いたアジア予選の概要を簡単に説明しよう。アジア地区1次予選は2004年2月に始まった。32チームを4チームずつ8つのグループに分け、勝ち抜いた各グループの8カ国のみが最終予選に出場できる。その8カ国を4カ国ずつの2グループに分け、ホームアンドアウェー方式のグループリーグを戦い、各グループの上位2チームがワールドカップ本大会の出場権を獲得した。また、各グループの3位同士がプレーオフを行い、その勝者が北中米およびカリブ海地区4位とプレーオフで出場権を争った。(アジア5つ目の出場枠をかけてバーレーンはトリニダード・トバゴと戦ったが惜しくも敗れた。) ワールドカップ本大会も32チームが4チームずつ8つのグループに分けられる。日本はF組。ブラジル、クロアチア、オーストラリアと決勝トーナメント出場を賭けて戦っている真っ只中だ。初戦は6月12日のオーストラリア戦だった。オーストラリアはほとんどの選手がヨーロッパのクラブで活躍している隠れた強国だ、侮れない。この日は夜まで仕事で終わった時は渋谷にいた。電気店の大型テレビには宮本選手の苦渋の顔がアップになっていた。3−1で負けた。「何故だ!」当然悔しい。家に帰ってビデオで最初からじっくり観た。残念ながら、負けてもしょうがない試合だった。理由のいかんに拘わらず悔しさはまったく引かない。引かないどころか時間が経つにつれて増してきた。たかがサッカーの試合といってもそこには民族の誇りがかかっている。ライブ会場ではおとなしい日本人だって例外ではない。子供から年配の人まで国民がその瞬間ひとつになる。国中で同じ気持ちになれるなんて本当に素晴らしい。今年はすでに冬季オリンピックがあり、野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)があった。教科書に「国を愛する心とは・・・」なんてありきたりの言葉を並べるよりよっぽど国を身近に感じることができる。日本はほぼ単一民族にして島国だから、地続きで国境を持つ国々の人々とは民族を意識するという点においてあきらかに違いがある。(このことが前回エッセイの日本と日本人についての文章にも繋がっている。)オーストラリアは移民の国だ。幾つもの民族が重なり合って暮らしている。こういう国にとって、国の威信を賭けた戦いは国民がひとつになる大きなチャンスだ。特に子供には大きな愛国心が芽生える。政治や経済にいくら力があっても愛国心とは関係ない。そんなことは自慢の種にもならないのだ。国を背負って戦う選手の必至の表情の中にこそ胸を熱くする何かがある。そういう意味においてオーストラリア人にとってはたまらない試合だったはずだ。残り6分で3得点なんて、実力の拮抗するチーム同士のサッカーでは聞いたことがない。オーストラリアでサッカー人気が爆発することは間違いないだろう。逆に我々にとっては残酷な負け方だった。言いたくはないが、はっきり言って世界に対して恥ずかしい。 でも、それでも、何がなんでも気を取り直していかねばならない。あらゆる理由をつけて自分を、世論を鼓舞しなければならない。これも国民の宿命だ。18日のクロアチア戦で引き分けて、事実上決勝トーナメントに進めなくなった今でも、まだ大丈夫だ、可能性はある、と普通に言っている我々日本人のなんと意地らしいことか。見たくはない現実を突きつけられて笑ってごまかそうとしているようなものだ。(しかし、WBCのことを思い出せ、あれは本当に奇跡だった。もしかしたらブラジルに3−1で勝ちクロアチアが1−0でオーストラリラを破るかもしれない。神風が吹くのだ、と一縷の望みにかけている自分がいるのも事実なのだ。)唯一駅売りの夕刊数紙のみが冷静に事実を伝えている。 クロアチアはオーストラリアとは違った歴史をたどっている。ユーゴスラビアという多民族国家が内戦を経て分裂してできた6つの国のひとつだ。まだまだ血は乾ききってはいない。8年前のフランス大会では戦火をくぐり抜け日本と共に初出場。やはり同じ組で戦い1勝もできなかった日本を後目に、なんと3位という好成績を収めた。(前回の日韓大会ではイタリアに勝ちながら決勝トーナメントには進めなかった。日本はグループリーグを突破し16強入りを果たしたが決勝トーナメントの1回戦でトルコに1−0で敗れた。)今大会、日本が第2戦のクロアチア戦でも勝てなかった要因として暑さや戦術その他たくさんのことが挙げられるのだろうが(これは専門家の皆さんに任せるとして)この試合はふたつの場面に象徴されていたと思う。川口選手がPK(ペナルティーキック)を止めた場面と柳沢選手が決定的なシュートを外した場面だ。このふたつの場面には共通するある言葉が浮かぶ。川口選手が止めたPKだがスルナ選手の蹴ったボールはコースもよかったし力もあった。十中八九入ってもおかしくないようなシュートだった。この場面を見た瞬間、勝ったと思った。昨年のアジア大会での壮絶なPK戦での勝利を思い出したからだ。そしてもうひとつは柳沢選手のシュート。サッカーをやっていて、それもフォワードの選手なら中学生でも滅多に外さないであろうレベルのシュートだ。柳沢選手にしても、もう一度同じボールが来たら90%以上の確立でゴールできるだろう。そう、このシュートも十中八九入ってもおかしくなかった。 日本戦以外の試合も時々観るが気になることがある。現代のサッカーは勝つためには手段を選ばなくなってきている。点を取られそうな危ない場面で足を引っ掛けて(こっちの方を危ないと言うんだ。)ファールするのは今や当たり前だし、あきらかに相手の足首を狙って蹴っているような選手もいる。思いたくはないが蹴られた相手の選手生命なんてどうなってもいい、歩けなくなっても知るものか、という悪意があからさまに見えることがある。そこにはためらいのかけらもない。これでは興ざめしてしまう。(事実、現代サッカーにちょっと幻滅してしまった。)これをしないと勝てないというのなら 日本チームは永遠に勝てなくてもいい。勝ちさえすれば相手などどうなってもいいというようなサッカーではいけない。相手も背負っているものは同じなのだ。武士の情けの精神や負けた相手を労る気持ちは決して失くしてはならない。ひどい反則をした選手が退場とか次の試合に出られない程度の制裁しか受けないというのではあまりに生温い。1年間試合に出場できないぐらいのペナルティーを科さない限り収まらない問題だろう。勝つことは大事だ。負けたらこのエッセイのように何を言われるか分からない。でもルールを守り、守らせないとそれはもうスポーツとは呼べない。そこでますます審判の判定が大事になる。個人の判断で決まってしまう、というのはある程度我慢するとしても、その日の気分や好き嫌いで判定されては困る。 さて、6月22日のブラジル戦ははたしてどのような結果になるのだろうか。10−5で負けてもいい、とにかく攻めて点を取ってほしい。そうじゃないと三浦知良選手が代表選手を外された時のように我々の心に一生の傷として残ってしまいそうだ。中途半端に負けないでほしい。負け方にもいろいろある。完膚なきまでに叩きのめされてもいい、潔くあってほしい。それもまた日本の誇りだ。 |
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