ASIVIの戸を開けると、中はまだ薄暗かった。店内の空気によどみはない。天井や壁に染みついた煙草やアルコールのにおいと手作りの家具が発する木の香りが綯(ない)交ぜになった独特の空間が出迎えてくれた。ライブハウスには、独特のにおいがある。煙草やアルコール以外にも埃やカビ、汗や使い古しの油のにおいが混ざっているのは誰もが分かるが、それがあまり嫌だと感じられないから不思議だ。東京であろうが大阪であろうが、ロンドンであろうがマドリッドであろうが変わりはない。
キッチンにいたスタッフに挨拶をすると、ぼくたちはテーブルの上に楽器を置いた。スポーツ選手が、試合の何時間も前に会場に入り体をほぐすところから始めるように、ぼくたちミュージシャンも本番に向けてゆっくりと頭と体を会場に合わせて行く。その場に体を慣らすことが大切だ。20人も入れば一杯になる小さなライブハウスであっても武道館であっても同じことで、ライブは、会場の空気に触れ
“その場の人” になることから始まる。そこが、勝手知った場所だとしても同様で、その日だけの空気を体感し、それを楽しまなければ嘘だ。ステージや客席はもちろんのこと、キッチンや楽屋、トイレ、すべての場所に経営者やスタッフの思いが現れる。居心地のいいライブハウスでは、結果的にいいライブになることが多い。
ライブが始まる前にどんなことをするのか、イメージでは分かっていても実際にはどうなのか、漠然としか分からないという人のためにライブまでの流れを簡単に説明しよう。店を開けるスタッフの次に来るのは音響スタッフだ。機械は、突然、予測もなしにストライキを始める。それが、どんなに大切なライブであったとしても無慈悲だ。止まるときには止まる。前日までちゃんと鳴っていたのに音が出ないなんていうことも多々ある。音が出なければライブは成り立たない。音響、特にメインのミキサーは、会場で一番大きな責任を負っていると言っても過言ではない。右と左のスピーカーがちゃんと鳴っているか。手元のフェーダーは問題なく操作できるか、聞き慣れた音楽を流しながらチェックしてゆく。最初の儀式が終わると、他の音響スタッフがマイクやラインボックスをアーティストからもらったセット図を基にステージに配していく。セット図は、アーティスト側から、予め渡されるべきもので、
FAXやメールで送られてくる。これは、設計図のようなものだ。音響スタッフは、セット図を基にチャンネルの割り振りを決めて行く。
ドラムには、多くのマイクが使われる。まずは、基本の3点セットから。
■バスドラム (一番大きなドラム、客席を向いて横たわっている太鼓。多くは、前面に穴が開けられ、その中にマイクを差し入れて音をひろう。)
■スネアドラム (ドラマーの真ん前に横に置かれた比較的音の高い太鼓。上からねらう場合と下からねらう場合とがある。上下2本のマイクを使用することもある。)
■ハイハット・シンバル (2枚重ねで使う、左足でコントロールするシンバル。ハイハットにはマイクを使わないことも多い。音がよく通り、スネア用マイク等他のマイクによく入るからだ。)
3点セットの次にはタム類が続く。
■タムタム (バスドラムの上に、ひとつ、ふたつ、ないし、三つ並べられる、音程が分かりやすい太鼓。例えば、左からド・ミ・ソのようにチューニングされる。ハイハット側から、小さいものから順に並べられることがほとんどだ。数は、ドラマーのスタイルや演奏する音楽の種類によって変わってくる。)
■バスタム (ドラマーの右側、タムタムに繋がるようにしてセットされる太鼓。バスドラの次に大きい。)
タムタムには、マイクがひとつずつ割り当てられるから、ふたつの場合でも、ここまでで、少なくても五つのマイクが使われる。それに加えて、オーバートップ ( ドラム全体をひろうマイク。L (レフト:左) とR (ライト:右) の2チャンネル必要。) が2本。ドラムだけでも7〜8本のマイクが必要とされる。マイクでひろった音をミキサーに届けるには、マイクスタンド、そして、マイク用のケーブル(線)もいる。サウンドチェックは、ドラムから行われる。生音であるドラムの音量を基本に考えるからだ。ドラムの音量に合わせて他の楽器のレベルも決まる。経験を積んだドラマーは、本番を想定して叩く。サウンドチェックだけ軽く済ませて、本番は思い切り叩くようでは、一流のドラマーとは言えない。会場の大きさ、箱鳴り ( 会場の音の響き方)、ミュージシャンの数、音楽のタイプ等、考えられる要素すべてを考慮した上で、ドラムのチューニング (ドラムヘッドの張り方。締めたり緩めたりして音の高低を決める。) をし、太鼓やシンバルを叩く力をコントロールしてこそ一流のドラマーと呼ばれるのだ。
そのドラマーがたたき出す音を受けて、ミキサーは、会場に合った音作りをする。歌を含めた全体の音を想定しつつ、個々の音をもクリアに聞こえるようにと神経を集中させる。大切なのは“耳”だ。鍛え抜かれたミキサーの耳は、ミュージシャンの耳ともまた違う、微妙な周波数の音を聞き分ける特別な耳だ。同じミキサーでも、レコーディング・スタジオのミキサーとライブ会場のミキサーでは、分野がはっきりと分かれる。フレンチのシェフと中華料理の料理人ほどの違いがある。それに比べて、ミュージシャンの場合は、スタジオミュージシャンとサポートミュージシャンを兼ねる場合がほとんどだ。音楽業界においてのミキサーは、それぞれが完全な専門職だと言える。
ベースは基本的にライン1チャンネルだ。ベースアンプのスピーカーの前にもマイクを置くが、これには二つの理由がある。ラインの音とスピーカーの音をミックスして音作りをするケースと、何らかの理由でラインが機能しなかったときの予備、サブとして用意するケースだ。バンドのタイプ等よっては、あえてスピーカーの音を直接ひろうマイクだけにするベーシストもいるが、ベースの低音のように聞き取りにくい音の場合、他の音
(声やギター、ドラム、あるいは歓声) もひろってしまうマイクだとクリアな音を作りにくいという理由で、ラインをメインにすることが多い。ただ、ラインだと、音は楽器からミキサー卓へと直接流れるため、ベーシストには、左手のしっかりとした押さえと右手の正確なピッキングが要求される。キーボードは、今は、シンセサイザーが中心だから基本的にラインのみだ。ステレオ
(LとR) の2チャンネルでいい。キーボードを複数台使うときは4チャンネルや6チャンネルになることもあるし、キーボード・プレーヤー自身が手元のミキサーを使って調整し、2チャンネルで出力することもある。ただし、生ピアノとハモンドオルガンを使う場合は別だ。生ピアノやオルガンに繋がれるレスリー・スピーカーの音は、マイクでひろう以外に方法はない。レスリー・スピーカーの音はキース・エマーソンやディープ・パープルのジョン・ロードの音を参考にしてほしい。生ピアノ、ハモンドオルガンは、ともに適したマイクを使う。
また、ギターはベースと違ってアンプのスピーカーから音をひろう。アンプのキャラクターがサウンドを左右するからだ。アンプ個々の歪みは大事だし、ノイズまでもがギターサウンドの一部となることもある。ノイズは電源や照明から発生することもあるが、これはない方がいいに決まっている。そうしたときは、ホールでは舞台監督を中心に、ライブハウスではミキサーを中心に解決を図る。すべてが完璧な状態などあり得ない。ライブは、これらすべての状況を想定したミュージシャンと専門スタッフによる共同芸術なのだ。ステージ上の音という音はすべて、ミュージシャンの責任の上に成り立っている。だが、その音を活かすも殺すもミキサーの腕次第ということになる。
今までに何人ものミキサーと仕事をしてきたが、職人気質で普段は言葉数が少ない人が多い。何を言っても、自分が出す音でしか評価してもらえないと知っているからだ。この点は、ミュージシャンも同じだ。ライブの本番で、お客さんに少しでもいい環境で聴いてもらいたいという思いで音を突き詰めて行く。ステージに立つ心構えにプロもアマもない。だが、お金をもらって演奏するプロならば、なおのことそんな覚悟を持った人の集まりでなくてはならない。
藤田さんとぼくは、初めて会った音響スタッフとともにステージの音、会場の音を確認していく。ASIVIのミキサーさんにしても、アコースティックベース2本のバンドなんて初めての経験だろう。しばらくは試行錯誤が続く。ステージは、綿密な準備をして臨むのがいいのは当然だが、時には出たとこ勝負でもいい。ライブは“音”命、一回きりの真剣勝負だ。一期一会。一回きりだからこそ、価値があり、また、愛おしい。
BB-43に続いて、他の出演者のサウンドチェックが続く。どんなライブになるのか、期待は膨らむ一方だ。そのうちにお腹が減ってきた。近くに何か美味しそうな店はないかな。ぼくは、藤田さんを誘って表通りへと向かった。 (つづく)
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