ベースは、基本的には単音楽器だ。音像の中心にある(音の)最も低い部分、つまり、基礎を担う。“核” と言ってもいい。どんなに頑丈そうな建物であっても、大事なのは土台だ。地面の下にある目に見えない部分がしっかりしていなければ、立派な建物とは言えない。基礎とは、その字のごとく “もと” であり “いしずえ” だ。そんな “いしずえ” としてのベースは、アンサンブルの中で、“質のいい単音” であることを求められる。質のいい音とは、その音楽に最も適した “音質” と “音色” と “音量” を持った音のことだ。ベース単体の音がどんなにいい音だ(と思った)としても、それが、アンサンブルの中で活かされなければまったく意味がない。リズムをつかさどるドラムやパーカッションのような打楽器と音楽を彩るギターやキーボードのような和音楽器との間を取り持ち、全体をひとつにまとめるのがベースの大きな役割のひとつだ。

  音質や音数は、バンドの編成や音楽のタイプによっても違ってくる。3人バンドなら3人バンドに、10人バンドなら10人バンドに相応しいプレイがある。人数が多ければ多いほど、必要最小限の音にこだわるようになる。適切な場所に意味のある音をズバッ、ズバッっと打ち込んで行く。少ない音でどれぐらい表現できるか、ベーシストとしての醍醐味は、こんなところにもある。

  昨今は、ベース1本でステージに立つ強者も現れるようになった。驚くべきテクニックで勝負するベーシストや個性的なアイデアで音を操るベーシストたちだ。はなわくんのようにベース片手に漫談なんて発想は今までになかった。ベースが持つ本来の役目とは別の音楽形態だが、彼らは、ベーシストとしての未知の世界を探る先駆者であり、ベースの可能性自体、まだまだ尽きないということだ。

  ぼくと藤田さんのようなオーソドックスなスタイルのベーシストがユニットを組むこともめずらしい。発想としては上出来だ。ぼくたちは、ベースの音をどれだけ少なくできるかというところに着目している。ふたつのベース音とふたりの声、これだけでどこまで表現できるだろうか、実験的なアプローチも多い。ただ、弱点もある。聞き取りづらい低音だけの音楽だから、ざわざわしている場所では、音の機微が伝わりにくい。そんなところをどう解消していくかが今後の課題だろう。

  ブラックナイロンの弦を張ったアコースティックベースは、ウッドベースのような響きも持っている。チェロのように聞こえることもある。奄美の音楽好きの皆さんは、2本のTACOMAの演奏に最初こそ戸惑った様子だったが、すぐにベースの単音と空間との微妙な関係に気付いたようだった。一緒に楽しんでくれている。メロディーが美しく誰もが知っているビートルズの曲や言葉を大切にした60年代、70年代の日本の名曲を散りばめて演奏していく。BB-43の定番曲であるジョン・レノンの 『Love』 でしめると、盛大なアンコールがかかった。アンコール曲は、日本という島国の別名 『ひょっこりひょうたん島のテーマ』 ライブは大合唱のうちに終わった。

  奄美には、(ちょっと言い過ぎだが)ベーシストのように、縁の下の力持ちであろうとした偉人の足跡がある。明治維新の立役者西郷隆盛だ。西郷が最初に流されたのが奄美大島だった。正確に言うと、流されたのではない。薩摩藩が幕府から彼を守ろうとして “隠した” のだ。ぼくは、日本史上、彼ほどの人物はいなかったと思っている。もちろん、ぼくの知る限りの話だ。それに、会ったこともないから本当のところは分からない。だが、どんな人物よりも懐が深く、私心のない男だったと思えてならない。ぼくの乏しい知識の中でライバルを挙げるとしたら、聖徳太子ぐらいしか思い当たらない。いや、聖徳太子では線が細過ぎる。武士の世を作った平清盛や源頼朝よりも、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等の戦国時代の武将よりも、彼と同じ時代を生きた明治維新の英雄たちの誰よりも、大人物だったと思えてならないのだ。会った瞬間に誰をも虜にしてしまうほどの魅力を持った男になど会った例がない。西郷は、どんな顔を、表情を、していたのだろう。もしも、一度だけタイムマシンを使えるとしたら、彼と正対してみたい。

  奄美大島には、西郷が暮らした家が残っている。ぼくは、帰途に就く前にどうしてもそこを訪れてみたかった。8月30日は、パー子さんと下田さんの奥さんキイ子さんが、空港まで送ってくれることになっていたが、その前に西郷宅に寄る予定を組んでくれていた。ありがたかった。西郷の家は、龍郷湾の海辺からすぐの場所にあった。藁ぶき屋根の質素な家には、彼の書いた文字が並んでいた。彼が好きだった言葉 『敬天愛人』 の他に、手紙も展示してあった。のびのびとした字は若々しく、迷いのないまっすぐな線には、気迫があふれている。字を見ているだけでも爽快な気分になるから不思議だ。ぼくは、その文字を写真に収めた。

  西郷は、この地で愛加那(愛子)さんという女性と結婚し、ふたりの子をもうけた。のちに京都市の市長になる西郷菊次郎と大山巌元帥の弟と結婚した菊草さんだ。ふたりは、早いうちに鹿児島の西郷家に引き取られたが、愛加那さんは、生涯をこの地で過ごしたそうだ。この家と愛加那さんの墓は、彼女の実家である龍家の方々が今でも大切に守っている。ぼくたちは、西郷が過ごした家にあがり、隣に住む龍さんの話を聞くことができた。ぼくにとって、ここでの1時間は貴重なものとなった。

  海が見えるレストランで、奄美での最後の食事を終えると空港へと向かった。空港では、パー子さんもキイ子さんも知り合いがいたらしく、ぼくと藤田さんがいるのを忘れたかのように、楽しそうに話をしている。そんな自然な振る舞いもまた心地いい。ボーイング737は悠々と飛び立った。ぼくは、心の中で奄美との縁を繋いでくれた藤田さん、下田さん、パー子さんに心から感謝するとともに、新しくできたたくさんの友だちには、これからよろしくお願いしますと礼をした。飛行機が上昇し、奄美の大地が島の形を見せ始めた。『また来るぞ!』ぼくと奄美大島との縁は、始まったばかりだ。  (完)

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