フィリピン人ボクサー、マニー・パッキャオのドキュメンタリー番組を見た。祖国のために体を張って闘う彼の姿に 『英雄』 という言葉が重なった。英雄とは、生き様と死に様を示してくれる男の別名だ。そんな英雄について考えてみようと思う。人は、生まれ育った土地や場所に対して、また、民族や人種に対して、無意識のうちに誇りを持つ。このような気持ちは世界共通だ。中には、
国や故郷に対して、良く言わない人もいるが、そういう人に限って、真の愛国者である場合が多い。言動とは裏腹に、心の奥底では祖国を愛し、生まれた土地のことが気になって仕方がないのだ。
フィリピンは、7000を超える島々からなる国だ。決して裕福な国ではない。まだまだ多くの人たちが貧困に喘いでいる。パッキャオは、そんなフィリピンでも貧しいと言われているミンダナオ島に生まれた。貧困から脱出するには戦うしかなかった。彼は、賭けボクシングから身を起こし、小さなチャンスをことごとくものにしていった。ライトフライ級でデビュー以来、次々と階級をあげながら、スーパーウェルター級までの11階級で戦い、体格で上回るデ・ラ・ホーヤやモラレス、ハットン等、時代を代表する選手たちと名勝負を繰り広げた。その結果、ボクシング史上二人目となる世界タイトル6階級制覇王者となった。これがどんなにすごいことか。世界は、アジアの貧しい国から来たボクサーに喝采を送った。パッキャオのすごさは、タイトルを狙って試合をしたのではないという点だ。彼は、チャンピオンになるためではなく、大金を得るために有名な相手、格上の相手との試合を望んだ。なぜなのか。貧しい祖国に病院を建てるために、学校を建てるために、だ。その結果として6階級制覇という肩書がついてきたに過ぎない。そこにこそ、パッキャオの本当の凄味がある。もし、本気で狙っていたとしたら、軽く8階級は制覇していただろうと言われている。
フィリピンは、スペイン、アメリカの植民地だったという不幸な歴史を背負っている。第2次世界大戦では、アメリカの領土として日本軍に占領された。その後、アメリカからの独立を果たすが、共産ゲリラとの内戦や20数年にも及ぶマルコスの独裁政治で、国は前を向けなかった。1984年の2月革命で国民は民主化を求めた。ピープルパワーでコラソン・アキノ政権が樹立されたのは、記憶にも新しい。その後、ラモス大統領、エストラダ大統領、アロヨ大統領と続き、現在は、コラソン・アキノ大統領の息子、ベニグノ・アキノ大統領がフィリピンの舵取りを任されている。
パッキャオは、どんなに有名になろうと、大金を得ようとミンダナオ島から離れようとしなかった。主戦場のアメリカやフィリピンの首都マニラに豪邸を建てて、悠々と暮らすこともできただろう。だが、彼は、今でもミンダナオ島の小さなボクシングジムで汗を流している。2010年からは、国会議員という顔も持ち、二足の草鞋を履くようになった。二足の草鞋も彼にならふさわしい。彼も人間だ。酒や女、博打に溺れもした。それでも、そんな生活に終止符を打ち、今では、哲学者のような風貌でリングに立ち続けている。自国の貧困をなくすためにリングで戦い続けている。
昨年末のマルケス戦では、試合を優位に進めながら、カウンターを狙っていたマルケスの術中にはまり、壮絶なノックアウト負けを喫した。右ストレート一発で失神させられ、前のめりに倒れるような危険な負け方だった。運よく、致命傷には至らなかったが、心は折れたに違いない。しかし、失意のうちに帰国した彼に対し、国民の反応は感動的なものだった。空港から彼の家までの道は、島民で埋め尽くされ、大歓声が彼を包んだ。誰もが、彼がどんな思いで戦ってくれているかを知っていたのだ。フィリピンのために、フィリピン人の名誉のために、戦って散ったパッキャオを責める人は誰もいない。
残念なことに、日本においては、フィリピン人ボクサーは、負けることを前提に試合を組まされることが多い。これからという有望なボクサーに経験を積ませたり、連続KO記録を伸ばさせたりするために、ピークを過ぎたフィリピン人ボクサーが対戦相手として雇われる。明らかに実力差がある選手同士の対戦を見るのはつらい。闘志むき出しのイケメン日本人ボクサーのパンチを浴びて、マットに沈むフィリピン人ボクサーたちは、日本に対してどんな思いを抱いて帰国するのだろう。ほんのちょっとでも美しい日本文化に触れただろうか。美味い日本食を食べただろうか。せめて、浅草辺りを歩いてお土産のひとつでも見つけてもらえたら、季節が秋だったとしたら、奥多摩の紅葉を見ながら鮎やイワナにかぶりついてもらえたら、などと、そんなことが気になって仕方がない。パッキャオは、そのような悪条件で試合をさせられるフィリピン人ボクサーたちの地位向上のために、もっと言えば、フィリピン人の国際的な地位向上のために人生をかけている。
余談だが、30年ぐらい前、ぼくの実家がある地域にも、アジアからの出稼ぎ労働者がいた。今もそうだが、田舎の町では外国人は目立つ。彼らは、好奇の目で見られ、人の目を避けるようにいつも下を向いて歩いていた。日本人は、ヨーロッパ人やアメリカ人のような白人に対しては、憧れに近いまなざしを送るが、黒人や同じアジア人に対しては、自分たちより下に見る傾向がある。高校生だったぼくも、アジアからの出稼ぎ労働者に対して、周りのみんなと同じような目で見るものだと思っていた。ところが、母は違った。彼らに会うと、ニコッと微笑んで声をかけた。「どこから来たの?」 「今日はお休みなの?」 やさしく声をかけられた彼らは、最初はいぶかしがるが、照れながら笑顔で返す。うれしいのだ。「これで、ジュースでも飲んでね」 と言ってお小遣いまであげている。母は言った。「どうして、私があの子たちにやさしくするか分かる?」 「将来、おまえたちが外国に行ったとき、その国の人たちに優しく接してほしいと思うからよ。」 母は、出稼ぎに来ていた若者に、自分の息子たちの将来を重ね合わせていたのだ。息子たちが外国で差別を受けたとしたらどんなに悲しいか、母には、彼らの暗い表情がいたたまれなくてしょうがなかったのだ。世界中の母よ、世界を救うのはやはりあなた方だ。
2012年6月、パッキャオは、日本で 『一般社団法人マニー・パッキャオワールドスポーツ機構』 をスタートさせた。自らも理事として参加、 団体は 「世界的なスポーツであるボクシングを通じて、日本とフィリピンの人的交流を行うことにより、ボクシングを始めとする各種スポーツの普及、及び、新たな雇用を促進するとともに、フィリピン国内の貧困層の自立に向けての支援を諮り、もって両国の友好を拡大すること」 (フェイスブック公式ページより) を、目的としている。こうして、日本にもパッキャオとの縁ができた。アジアの誇りとして、今後も、彼を応援し続けたい。
『体が動かなくなるまで試合をして、もうけるだけもうけてやる。』
パッキャオは、こう言ってにやりと笑った。真の英雄の言葉は、フィリピン国民の心の一番深いところで響いている。 (つづく)
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