今年の2月、実家に帰った時の話だ。朝、起きると母が言った。
「これから、味噌作りに行くんだけどお前も行く?」
味噌作り? 味噌を作っているなんて聞いたことないぞ。そんなおもしろそうな話に食いつかないはずがない。行く。即答だ。
味噌には、赤味噌、白味噌、合わせ味噌があり、古くから日本の味であること。また、万能の栄養食であり、医者いらずとまで言われる食品であることぐらいは知っている。だが、味噌はどのようにして作られるのか。考えてみると、大豆から作るということぐらいしか知らない。味噌は、日本人にとってはなくてはならないものだ。その原形は、縄文時代までさかのぼり、奈良時代にはすでに現在の味噌に近いものが作られていた。食べ物は、体にだけではなく思考にも直接、働きかけている。食べたものが血となり、骨となり、筋肉となる。脳も肉体の一部に変わりはないのだから、味噌が、日本人の生き方や考え方に少なからず影響を与えているとしても何の不思議もない。この日本人の
『素』 とも言える発酵食品について、興味のある方はじっくり調べていただくとして、今回は英雄の話、先に進もう。
母とぼくは、一晩水に浸けた大豆と塩を持って車に乗った。味噌作りの先生は、母の友人夫妻で、実家から車で5分ぐらいのところに住んでいる。会社を息子たちに任せ、千葉の田舎で悠々と暮らしている。ふたりとも風流人で多趣味、特に、ご主人は、いつ会っても子供のように目をキラキラさせて好きなことに没頭している。車を降りると、あたり一面大豆の匂いが充満していた。家の脇にある小屋で大豆が煮られている。何とも懐かしい匂いだ。小学校4年生の時、遠足で、銚子にあるヒゲタ醤油の工場を訪れたことがある。瞬時にしてその時のことが思い出された。醤油工場の匂いは、比較にならないほど濃厚だったが、大豆の匂いが、日本の匂いのひとつであることに疑いはない。
家に入るとすぐに、煮あがった大豆が運ばれてきた。まずは、ご夫妻の分かららしい。母の分はその後だ。柔らかくなった大豆を口に入れてみた。甘味があって美味い。この大豆をミンチにしていく。この家には、肉屋に置いてあるような立派なミンサーがあった。ミンサーの使い道は、肉や魚だけではなかったということに気付く。実際に手にするのは初めてだ。大豆を入れてミンサーのハンドルを回していく。ペースト状の大豆が、にょろにょろと生き物のように這い出てくる。小さな窓から束になってにょろにょろ、にょろにょろとあふれ出てくる。ぼくの中からは、複雑な感情がわきあがってくる。気持ちがいいのか悪いのか、人間の感覚は表裏一体だ。次の行程は木箱の中だ。ミンチにされた2キロの大豆と2キロの麹、それに800グラムの塩を、混ぜ合わせて行く。麹は米・麦・大豆などを蒸してねかし、これに麹かびを加えて繁殖させたものだ。『糀』
とも書く。米の花なんて、そのセンス がたまらない。やはり漢字は感性の文字だ。『かび』 というと、普段の生活の中では、あまりいいイメージは持てないが、実は、動物の生命と密接に係り合っている。かびを利用しているのは醤油や味噌だけではない。日本酒や鰹節にも使われているし、チーズの熟成にも欠かせない。かびも、人間の生命の素のひとつと言ってもいい。今では、一般的となった抗生物質もアオカビから発見された。種類によって、栄養でもあり毒でもあるのはキノコと同じだ。自分の体に有益なものなのか、そうでないのか、動物は、歴史の中で何度も何度も体を張って試してきた。失敗が死を意味したこともあっただろう。そうやって、自分たちの体にとって、いいものなのか悪いものなのかを選別してきた。残念ながら、人類は、同様に、他人を善か悪かで判断しなければならないこともある。
手で揉むようにして混ぜ合わせて行く。大豆がまだ生温かいから、手は気持ちのいい温度の中にある。更に、麹のせいで手の平は見事につるつるだ。麹を使った化粧品があるのも納得できる。そんな作業の中で、ご主人がぽつんと言った。
「千葉の人は働かないよなあ」
他県の出身の彼の眼には、千葉県人はのんびりしているように映るらしい。『千葉県人はのんびりしている』 このことは、昔から言われ続けていることだったから、別段驚きはしなかったが、他県出身の人から、面と向かって言われるのは初めてだったから、やはりそう見えるのかと妙に納得してしまった。どちらの出身なんですか、ぼくは、すかさず聞いていた。
「岡山。岡山の人は働くよ〜」
ご主人の言葉には、実感がこもっていた。千葉県人が怠け者だとは思えない。そうではなくて、イメージの話なのだと思う。おおらかさやのんびりとしたムードが、他国との緊張に揉まれ続けた地域に生まれた人から見ると、もの足りなく思えるのではないだろうか。
岡山と言えば、備前。備前と言えば、宇喜多秀家だ。秀家ですね、と言うと、そうそう、宇喜多堤の辺りだよと返ってきた。宇喜多秀家は戦国時代の武将で、初代岡山城主だ。その秀家が、児島湾の干潟を新田に開発するために築いたのが宇喜多堤だ。秀家は、信長に仕え、その後は秀吉に仕えた。戦国末期、備前は織田と毛利の勢力の境目に位置し、どちらにとっても、重要な土地だった。信長が本能寺で明智光秀に殺されると、秀吉は、水責めで落城間近だった高松城と和議を結び、急ぎ帰京、その後、天下人となった。秀家は、その豊臣家の五大老のひとりであり、妻は、前田利家の娘、豪姫だ。秀吉と利家は若いころから盟友だったこともあり、秀吉が、子だくさんだった利家に頼んで、養女として迎えたのが豪姫だった。秀吉は、豪姫を目に入れても痛くないほど大切にしていたという。そんな秀吉が、豪姫の婿にと迎えたのが秀家だった。この一事をとっても、秀家がどれほど、秀吉に信頼されていたのかが分かる。秀家は大柄の美丈夫で文武両道に秀でていたと言われている。関ヶ原の合戦では、西軍の武将として17,000人を率いて出陣した。西軍では裏切りが相次ぐ中、秀家は最後まで戦い抜いた。彼もまた、まぎれもない英雄だった。
岡山に生まれた人にとって、宇喜多秀家は英雄だ。仙台に生まれた人には独眼竜・伊達政宗がいる。甲府には武田信玄が、越後には上杉謙信がいる。愛知県にいたっては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、山内一豊等数えきれないほどの英雄、豪傑がいる。静岡県には、時代は遡るが、源頼朝がいる。四国にも、中国地方にも、九州にも英雄は大勢いる。
千葉県には、こういったご当地の英雄がいない。安房の国に南総里見八犬伝で有名な里見氏がいたが、なじみが深いのは南総の人たちぐらいだろう。松尾に出城があったと言われる平将門も茨城県を中心に活躍した。将門の子孫には後に、県名にもなる千葉氏がいるが、平家の一族ながら源氏の頼朝を助けた豪傑として知られているぐらいで、彼等もまた県を代表するような存在ではない。特に、ぼくが生まれた東総地区には、馴染み深い武将はいない。
織田信長の死後、徳川家康は、豊臣秀吉に命じられて国替えを余儀なくされた。その時、手にしたのが当時は未開の地だった関八州だ。関八州とは、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国、相模国、武蔵国の八国のことで、東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県、茨城県、群馬県、栃木県、現在の一都六県にあたる。江戸は世界に誇る都市となったが、その周りの国々は取り残された。いや、取り残されたのではない。江戸だけが発展し過ぎた。徳川御三家のひとつ水戸家がある水戸は別として、江戸を除く関八州のほとんどは、徳川家の天領か御家人の領地となった。いわゆる徳川家のおひざ元となったのだ。だから、ぼくたちの先祖は、ある意味守られていた。徳川家の庇護の元、ゆったりと過ごすことができたのだ。天候に恵まれた肥沃な土地も、のんびりした千葉県人気質を形成する要素のひとつとなったに違いない。 (つづく) |