母が、どうだとばかりに買ってきた大豆も、ご主人が用意した、北海道産の 『鶴の子大豆』 にはかなわなかった。煮あがった母の大豆を口にしてみたが、甘味が違う。やっぱり築地だ、とご主人がこだわるのも納得だ。老舗が大切にされるのは、虎屋同様、名前や評判だけではないということだ。しかし、母が用意した塩はよかった。その名も
『沖縄の塩シママース』。海水から作られた天然の塩だ。袋に印刷されている 「メキシコまたはオーストラリアの天日塩と沖縄の海水でつくりました」 という宣伝文句が、何ともいい。まず、「メキシコまたはオーストラリア産」
という文句にそそられる。メキシコにしても、オーストラリアにしても、塩がいいなんて話は聞いたことがない。たとえ、そうであったとしても、メキシコとオーストラリアの距離感が絶妙だ。特に、『または』
という表現がすごい。『または』 があることによって、メキシコの天日塩なのか、オーストラリアの天日塩なのか、どちらかは分からないが、その時々によってそれらを使い分け、決して混ぜてはいないというこだわりが伝わってくる。消費者の意表を衝くこのセンス、考えた人は只者ではない。そんなシママース、この袋はメキシコ産かオーストラリア産か、どちらだ?
なんて思いで口にしてみるのもいいではないか。
さて、英雄の話。前出の宇喜多秀家の話には続きがある。関ヶ原の合戦で西軍の武将として最後まで戦い抜いた秀家は、討死を覚悟するが、 宇喜多軍の軍師・明石全登に説得され、近臣数名とともに関ヶ原を脱出して息吹山中へと逃れた。一行は、山中を北上するが、道に迷ったあげく、飲み水にも事欠くありさまとなった。そのころには、西軍の敗戦は知れ渡っていて執拗な落ち武者狩りが行われていた。秀家ほどの武将の首だ。その価値が破格だったのは間違いないだろう。結局、秀家一行は、山中を迷いに迷い、落ち武者狩りの一団に遭遇した。その一団のリーダーが矢野五右衛門だった。いい獲物に出会ったとほくそ笑む五右衛門だったが、秀家のただならぬ気品にひるみ、手を出すのを躊躇した。そのうちに、秀家の方から声をかけた。
「わしは、西軍の大将・宇喜多秀家だ。腹も減ったし道に迷って困っている。湯漬けなどふるまってもらえば、徳川方に引き渡してもよいぞ。決して恨みはせぬ」
いきなり身分を明かした秀家も秀家だが、そんな秀家の態度に、五右衛門は驚き、潔さに感服してしまった。
「存ぜぬこととはいえ、ご無礼の段は平にお許しください。万時、私にお任せくださいますよう」
そう言った五右衛門は、秀家を40日以上匿った。その後、秀家はひそかに大阪の屋敷に戻り、妻である豪姫と奇跡的に再会する。豪姫は驚き飛び跳ねたことだろう。察するに余りある。彼女は、実家である前田家に頼み込み、秀家を九州に逃すことに成功した。薩摩の島津家は、当時はまだ徳川に頭を下げてはいない。秀家は、島津家に2年ほど身を寄せた。だが、徳川家と島津家の手打ちにより、その存在は衆人の知るところとなってしまった。それでも豪姫はあきらめない。彼女の必死の命乞いにより、秀家は命だけは助けられ八丈島に流されることになった。
当時の八丈島の環境は相当厳しかったようだ。秀家一行は、『へんご』 という毒性のある芋まで食べた。豪姫は、秀家の生活環境が少しでもよくなるようにと、15年に渡って前田家や幕府に働きかけた。やがて、その努力は実を結び、島の状況は一変する。前田家を通じて2年に一度、米70俵を送ることを幕府から許されたのだ。この豪姫の援助がなければ、宇喜多家は存(ながら)えられなかったかもしれない。秀家もまた偉かった。彼は、その米を独り占めせずに島民に分け与えた。
金沢にある豪姫の菩提寺、大連寺の現住職さんの話がもれ伝わってきた。
「八丈島から寺にいらしたご婦人が、豪姫さんを弔いたいというので肖像画の写しの前に案内したら、手を合わせてこう言うんです。『豪姫さん、あの時は、ありがとうございました』
って。」
あの時・・・。その婦人がつぶやいた 『あの時』 とは、400年前のことだった。八丈島の人たちの間では、前田家から送られてきた米のおかけで生き永らえることができた、という言い伝えがあるという。そこには、感謝を忘れない日本人の心がある。驚くことに、宇喜多家は、罪を解かれる明治2年まで八丈島から出ることはできなかった。彼らは、250年以上も戦争犯罪人として八丈島で暮らしてきたのだ。明治3年、東京に引っ越すことになった宇喜多家一族を迎えに来たのは、前田家が遣わした船だった。前田家からの援助は、250年間一度として途切れることはなかった。豪姫の思いが詰まった米70俵の援助は、江戸時代を通じてずっと続けられたのだ。宇喜多家は、秀家の長男・秀高の子孫が2家を、二男・秀継の子孫が5家を興した。今の当主は、宇喜多秀臣さんというそうだ。『秀』
の字は、受け継がれている。250年間、豪姫の思いを繋いできた前田家の藩主たちもまた天晴だ。この逸話は、受け継ぐ心の素晴らしさを教えてくれる。そんな日本人の奥深い心を大切にしていきたいと思う。
秀家は、八丈島で50年を過ごし、83歳の生涯をまっとうした。宇喜多家の子孫、息吹山中で秀家を匿った矢野家の子孫、そして鹿児島で秀家を世話した平野家の子孫、この3家の交流は現在も続いているそうだ。
英雄とは、生き方、死に方を教えてくれる男の別名だと書いた。与えられた場所で与えられたことを真っ直ぐにやり続ける男のことだとも書いた。定義は人それぞれでいい。心に響く
『思い』 を持った人が、それぞれの人にとっての英雄なのだ。ぼくの近くにも正真正銘の英雄がいる。その英雄は、ぼくが生まれた時からずっと側にいる。父の名は
「英雄」(ひでお)。子にとって、父が英雄であることは幸せだ。このエッセイを、5月に傘寿を迎える父に捧げたい。母の味噌もそのころ出来上がるらしい。 (了) |