2006年9月、45歳のぼくは、極真会館増田道場に入門した。『極真って、あの極真?』 という声が聞こえてくる。そう、あの極真だ。極真空手とは、ケンカ空手で一世を風靡した大山倍達が創設した空手の一流派で、寸止めではなく実際に打ち合うのが特徴だ。『空手って、ミュージシャンがやってもだいじょうぶなの?』
誰もが疑問に思うだろう。手は、指は、ミュージシャンにとって命のようなものだ。空手は基本的には素手の武術なので、普段の生活と比べると怪我をする確率も一気に高くなる。それほどに大切な手や指を危険にさらしてもいいものか。蹴りもあるから、足指を怪我して歩けなくなっても困る。万が一、突き指でもしたらどうする。ベースを弾けないということは、仕事ができないということだ。ミュージシャンである限り、何があろうと現場に行ってベースを弾かなくてはならない。ケガをしてレコーディングやライブに穴を開けるなんて、プロとしてあるまじきことだ。そんなリスクを背負ってまで、どうして空手を始めたのか。理由はあるにはあった。だが、今、考えると、それは単なるきっかけでしかなく、“何かに突き動かされた”
としか言いようがない。こんなときに、運命という言葉を使ってもいいものか憚(はばか)られるが、運命という言葉以外、この時の状況に当てはまる言葉を知らない。
ぼく自身もまさか空手をやるなんて夢にも思っていなかった。ぼくは、子供の頃から格闘技が好きだった。相撲、プロレスに始まって、ボクシング、空手、柔道、レスリング、K−1、何でも観た。中学生のころには、ブルース・リーにもあこがれた。それでも、自分がそれをする立場になろうとは、考えてもみなかった。というより、まったく違う世界のもの、次元の違うものだと思っていた。音楽を志す以上、決して、踏み込めない世界、いや、踏み込んではいけない世界だと信じきっていた。
そこに、空手の道場があることは知っていた。知っていたと言っても、気になっていたという訳ではない。ぼくにとっては、毎日のように通る道の脇にただ “ある” という存在でしかなかった。人は、興味あることやその時の自分にとって必要なことしか見えない。いや、見ない。瞳は、目の前にあるすべてを映すが、脳が認知しなければ見えたということにはならないからだ。目は、脳が必要とする情報をキャッチする器官でしかない。目は口ほどにものを言うというが、これは事実だ。目は、その人が何を考えているのか、どこに向かっているのかを如実に語る。それにしても、地球誕生以来の46億年という歳月は半端ではない。人間の五感は、その間にとてつもない進化を遂げた。ぼくたちの耳は、音楽を聴きながら、ある特定の音だけを聞き取ることができる。鼻は微妙な匂いを嗅ぎ分けられるし、舌の感覚もますます研ぎ澄まされてきた。五感を司る人間の器官の中には、他の動物より能力が劣るものもあるが、それを補って余りあるのが脳の進化だ。命を守るために発達した五感は、芸術やスポーツ等、“道” への追及にも使われるようになった。
あの日の夕方、いつものように歩いていたら、ふと空手の道場が目に入った。20人ほどの掛け声が響いている。それまでだったら、掛け声を横目にただ通り過ぎていただろう。しかし、この時だけは違った。ぼくは、足を止めた。いや、足が止まった。『空手か・・・』
思う間もなく、ぼくは道場の扉を開けていた。
扉を開けると、声の大きさは数倍になった。真剣さが伝わってくる。『何をしてるんだ?おれは』 と我に返ったがもう遅い。ぼくは、道場に一歩を踏み入れてしまった。ぼくに気付いた指導員らしき人が近づいてきた。目が
『何か?』 と聞いている。ここまできたらしょうがない。ぼくは、意を決して声を出した。
「あのう、ちょっと見学させていただきたいんですが」
指導員の方も、最初は、ぼくのような風貌の男が何の用かと思っただろう。それでも、落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ、お入りください」
ピリッとした空気の部屋に入るのは緊張する。ぼくは、部屋の隅に正座した。道場生の皆さんは正面を向いて稽古していたが、前面の大きな鏡越しに誰かが来たことは分かっているはずだ。見学者には慣れているのだろう。皆、気にせずに、淡々と稽古を続けている。中学生らしい少年から年配の方まで年齢は様々だ。
空手の道場に入ったのは初めてだった。学生時代、柔道部や剣道部の道場を覗いたことがあったが、それ以来のことだ。見るものすべてが新鮮だった。黒帯と白帯だけではないらしい。茶色、緑、青、オレンジ、色とりどりの帯が目に入った。日本人には、道着がよく似合う。
この時期、ぼくは、ある書家の門を叩き書道も始めている。今にして思えば、日本人としての “道” に飢えていたのかもしれない。そう、その日、ぼくは、空手と出会ってしまった。
(つづく)
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