「セイッ!」
  「セイッ!」

  道場に威勢のいい気合が響く。『セイッ!』 という掛け声を聞くのは初めてだった。この時点では、『セイッ!』が、空手の気合なのか、極真空手の気合なのかは分かっていない。ぼくは、これまで、空手も柔道も剣道も、武道の気合はすべて同じようなものだと思っていた。『タアッ!』 とか 『キエ〜〜ッ!』 とか、空手バカ一代や柔道一直線等のアニメやテレビ・ドラマの中で発せられる印象的な声だけが知りえる気合のすべてだった。その他、思い浮かぶのは、ブルース・リーの 『アチョーッ!』 やカンフー映画の 『ハイ!ハイ!』 だが、日本の武道とは結びつかない。ちなみに、ウルトラマンは 『シュワッ!』 で、仮面ライダーは 『トオ!』 だ。北斗の拳となると 『アタタタタタタタ』 とくる。世界でも類をみないオノマトペの使い手である日本人だが、気合に関しても個性的なものが並ぶ。

  まだ、準備運動の段階なのだろう。首、手首、肘、肩、足首、膝、股関節まで入念にほぐしているのが分かる。道着を着た老若男女がウォームアップを淡々とこなしていく姿とロック・ミュージシャンとしての自分の姿がどうにも交わらない。前面にある鏡を通してチラチラと寄せくる視線からも、自分がこの場に相応しくない人間であることを思い知らされ、長居は無用という言葉が頭の中をぐるぐるとまわり始めた。平静を装ってはいたものの、初めての空間に足を踏み入れた旅人のように、簡単には落ち着けるはずもない。ドキドキだ。道場を支配する気のようなものに気圧されながら正座をして視線を前に向けていると、さっきの指導員らしき人が声をかけてくれた。

  「よかったら、一緒にやってみませんか」

  ええっ??一緒にやるったって、できる訳がない。こちとら、空手の “か” の字も知らない素人なのだ。今日のところは見学だけで勘弁してほしい。

  「一緒に体を動かしてみましょう。簡単ですから」

  そう言われても・・・。なんと言って断ればいいのか。ジーパンとTシャツで 『セイッ!』 といくのか。いやだ。はずかしい。『セイッ!』 なんてとても言えない。その前に、道着を着た皆さんの中にジーパンで入っていってもいいものなのか、ここは神聖な道場じゃないか。

  「いやぁ、こんな格好ですから。ちょっと・・・」

  言葉を濁していると、どちらにお住まいですか?と聞き返された。

  「近くです」

  思わず、答えてしまった。反射的に出たぼくの言葉に対し、では、体を動かしやすい服装に着替えていらしたらどうでしょうと勧められた。

  「ジャージでいいんでしょうか」

  ぼくは即答していた。しまった、と思ったが遅かった。では、お待ちしています、という指導員の声に、ぼくは、はいっ!と答え、外に出ていた。冷たい汗が背中を伝う。考えることと行動が一致していない。どうしたというんだ。本当に着替えて戻ってくるのか。このまま戻らなくてもいいんじゃないか、いや、それはまずい。そんな卑怯なことをしたら、二度とこの時間にあの道を通れなくなる。一旦口にした以上は、着替えて戻るべきだ。頭の中では、いろいろな思いがせめぎ合う。だが、足は別人のもののように真っ直ぐに家へと向かい、迷いもせずにジャージを履き外へと出た。結局、ぼくは、急ぐかのようにして再び道場へと向かっていた。稀に、自分の意志とは関係なく体が動いてしまうことがある。運命に逆らえなかったんだ、とあとから思い至るのだが、この時もまさにそんな感じだった。

  足と違って、脳は空手を始めるなんて気は毛頭ない。とりあえず、とりあえず、言われるままに着替えてきたという程度のことだ。『行くには行くが無理だったらやめよう』 とか 『今日は行ったとしても、後でゆっくり考えればいいんだ』 とか煮え切らない思いが頭の中でごちゃごちゃ巡っているのだが、やはり、足はすすすっと進み、ものの10分で道場に戻ってしまった。『まずい、やる気があると思われたかもしれない』 とこの期に及んでもぼくの脳は抵抗していた。

  ジャージで戻ったぼくに対し、道場生の皆さんはどう思っただろうか。人はこんなことを気にする。あとで聞いた話だが、皆さんは 『あれ、誰だろう』 くらいにしか思っていなかったそうだ。人は、他人の思いまで自分のイメージで勝手に作り上げてしまう。思い込みは危険だ。休憩が終わり、皆さんが整列した。ぼくはというと、どうしたらいいのかも分からず借りてきた猫のように後ろでぽつんと立っていた。

  「竹沢さん、後ろで、みてください」

  指導員の方が、最前列にいた人に向かって指示を出した。

  「押忍!」

  黒帯をつけた竹沢さんが大股でやってきた。同世代に見える。

  「私がお教えしますので、だいじょうぶです」

  『だいじょうぶではありません。もう、何年も、いや、20年以上、運動なんてしていないんです』 ぼくは、心の中で叫びながらも、よろしくお願いしますと声にしていた。ぼくにとって、空手の、生まれて初めての伝統基本稽古が始まった。  (つづく)

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