さて、空手とはいかなるものなのか。武道なのか、格闘技なのか、スポーツなのか。その定義は曖昧だ。いや、曖昧なのではない。武道でもあり、格闘技でもあり、スポーツでもあることが現代空手の真の姿で、これら三つの要素が重なりあい内包しあって、空手を空手たらしめている。それは、武道、格闘技、スポーツ、の三つの輪が信号機のように並んでいるというようなイメージではない。武道という大きな輪の中にスポーツや格闘技としての空手が含まれているような、また、スポーツ、格闘技としての輪の中に武道の精神が隠されているような、更に、それら大きな三つの輪が重なりあったような、そんな東洋的な図を思い浮かべていただくと分かりやすいと思う。
空手を始めてから七年、ぼくは、空手をどう捉えたらいいのかを自問し、ミュージシャンとしての生活を送る中、どのような意識で空手と向き合えばいいのかを考え続けてきた。こう書くと、いかにも真剣に空手と対峙してきたように思われるかもしれないが、そんなに大袈裟なことではない。ただ、たとえ、少ない時間であっても、続けるためにはそれなりの意義が必要だった。単なる格闘技であったならば、続けられたとは思えない。体を鍛えるためのスポーツであったなら、それなりの距離を保ちながら続けてはきただろう。だが、空手には、武道としての “道” がある。そして、武道には、体の使い方を根本から見つめ直すという側面があることを、稽古を重ねるうちに知った。それが空手に惹きつけられる理由のひとつとなった。
白か黒かで割り切ろうとする西洋の思想とは違って、東洋の思想は重なり合ったグレイの部分にこそ面白みを見出そうとする。白と黒の間に無限の色を含む、まさに
“墨” の精神だ。黒を表現するのに “玄” という言葉が用いられることがある。玄とは、深遠な悟りの境地のことで、“道理”、“真理” を意味する。空手の中にそんな精神性を見いだせたことが大きかった。
空手の歴史を調べてみたが、まさに謎だらけで、いまだに推測でしか語れないような部分も多い。ここでは、おおまかな流れしか紹介できないが、簡単に触れてみようと思う。空手が沖縄で生まれたというのは間違いないようだ。沖縄固有の拳法
『手( ティー) 』 に中国拳法や薩摩の示現流、日本古来の武術の要素が加わって、現在の空手になったというのが定説だが、この定説にも尾ひれがたくさんあって、空手史の全体像をつかむだけでも大変だ。500年以上前に、沖縄で手(
ティー)が生まれ、19世紀ごろに中国から入ってきた拳法は、手(ティー)とは区別され、唐手(トゥーディー)と呼ばれた。その後、20世紀に入ると手(ティー)も唐手(トゥーディー)と呼ばれるようになるのだが、この唐手の表記が、しばしば中国拳法と誤解されるようになった。沖縄古来の拳法が中国拳法と言われるのは、はなはだおもしろくない、ということで、昭和四年、空手家・船越義珍と彼が師範をしていた慶応大学唐手研究会のメンバーが話し合い、般若心経の
『空』 の概念を参考にして 『空手』 と表記することになった。こうして手( ティー)は、空手となった。今では、空手は 『カラテ』 ともなり、世界共通語の
『KARATE』 ともなった。
昔から、空手の “空” という字はいいなあと思っていた。この “空”、英語に訳すとしたら、どんな言葉がいいだろうと考えてみたことがある。“空”
を “そら” と読み、普通に訳すと 『Sky』 か 『Air』 となる。“くう”と読むと、空間を意味する 『Space 』 や 『Room』、『Empty』
があるが、どれもピンとこない。そこで、これならば近いのではと思ったのが 『Void』 だ。“空虚” または、“虚空” を意味する言葉だ。ドンピシャとまでは行かないが、“空”
のイメージは伝わるのではないだろうか。ちなみに、宮本武蔵の 『五輪の書』 の空の巻も 『The Book of the Void 』 と訳されている。
前置きが長くなってしまった。さて、稽古場に戻ろう。にこにこと近づいてきた竹沢さんが口を開いた。竹沢さんの黒帯は所どころ糸がほつれ、全体的に色褪せていた。黒帯を取ってからの歴史の深さが伝わってくる。体の線は細いが、相当の猛者に違いない。
「さあ、一緒にやってみましょうか」
はずかしいが、ここまできたらやらない訳にはいかない。突きなどの拳や腕を使う基本稽古は終わっていた。次は蹴りだ。「セイッ!」 という掛け声に合わせて、足を交互に付きだす。ええい、ままよ。『たあああ〜〜!』
見よう見まねでやってみる。自分では思い切りやっているつもりだが、うまくいかない。まったく、まったく足が上がらない。どんなに不格好なのかは言われなくても分かる。あられもない姿とはこのことだ。『かっこわり〜』
と思うのもつかの間だった。すぐに息があがってきた。ハア、ハア、ハア・・・呼吸が乱れる。あっという間に、誰よりも汗をかき、ふらふらになってしまった。とにかくきつい。こうなると、周りのことなんて考えていられなくなる。足を上げるのがこんなに大変だったとは。とにかく、足が重い。足に重さを感じたことなんてないぞ。時計を見た。な、なんてことだ。まだ、10分しか経っていない。道場生の皆さんはというと、まだ、ほんの準備運動だと言わんばかりに涼しい顔をして次の稽古を待っている。10分ほどで、濡れ雑巾のようになってしまったぼくは、膝に手をあて下を向いたまま動けないでいた。ヒイヒイと息をしながら、ただ、床を見つめていた。 (つづく)
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