増田道場は、八王子に本部があり、高田馬場、中野、調布、永山、日野等、都内に十数ヶ所の道場がある。また、北海道、新潟、岡山、埼玉、三重、南アフリカ等国内外にも支部を持ち、自ら設立したNPO 法人(国際武道人育英会)の活動を通して世界にも目を向けている。『交流』 『相互理解』 『尊敬』 を理念とし、国と国との懸け橋になるような武道人を育てることがその旨だ。なるほど、武道には格闘技やスポーツとは違った一面がある。勝敗では表現しきれない部分だ。武道における試合は文字通り “試し合い” で、1対1で稽古の成果を試し合う。一方的に “試す” のではなく “試し合う” というところに意味がある。単に勝ち負けをつけるのではない。自分と相手を共に活かす道でなくてはならない。それはまた、自分自身と向き合うということでもある。

  極真空手は、創始者である大山倍達総裁が旅立った後、いくつかの団体に分かれた。偉大な指導者の元に優秀な人材が集まるのは当然のことで、大山総裁の優秀な弟子たちは、それぞれの思いで極真の魂を引き継いでいる。組織の大小は問題ではない。高弟のそれぞれが伝統を大切にしながらも、師からの教えを噛み砕き、自らの解釈で弟子たちに伝えている。キリストやブッダの死後、弟子たちがそれぞれの道を歩んだのと似ている。宗派や流派は違えども目指す先は皆同じ、創始者が掲げた理念の実現だ。

  調布道場での稽古は、火曜日と金曜日の夜19時半から21時までと、土曜日の18時から20時まで、週に3回だが、会員は、他のすべての道場の稽古に参加できる。火曜や金曜、土曜の稽古に都合がつかなければ、高田馬場道場や八王子道場に出向いて稽古ができるということだ。場所を限定せずに稽古をしようと思えば、月に20回でも30回でも通えるのだが、そんなことは所詮無理な話だ。実際に7年間、調布道場以外で稽古をしたことはない。誰もが忙しい中、稽古の時間をひねり出している。ぼくにしても当然仕事優先だから道場に通う回数は限られてくる。ライブ、レコーディング、リハーサル、ミーティング、レッスン等のスケジュールと重ならない日に道場に出向いている。酒を飲む習慣がないのも幸いした。ぼくが道場に行くのはもっぱら火曜日か金曜日。早く帰れた日は道着に着替えて飛んで行く。7年前は今ほど忙しくなかったのか、月に8回~10回は稽古に出られた。しかし、2、3年ほど前から仕事の状況が激変し、月に1、2回しか出席できなくなってしまった。

  ぼくは、当初から稽古の初めに行われる伝統基本稽古に大きな魅力を感じていた。この30分の稽古に参加するだけでも入門する価値があると思っていた。言葉には魂が宿ると言うが、“稽古” という言葉にはかなりの重みがある。稽古は 『古( いにしえ)を稽(かむがへ)る』 と書く。『稽(かむがへ)る』 は 『考える』 と同義だ。稽古のたびに古と向き合うなんて気が遠くなるような話だ。凄味さえも感じてしまう。武道や芸能に限らず、親方や師匠が教えることを “稽古をつける” と言う。舞や三味線、琴等の習い事、また、演劇においても使われる。日々の稽古の先にこそ、いや、先にしか目指す道はない。 大山総裁は 『才能のある人で10年、そうでない人で20年、で “コツ” がつかめる』 と言った。この “コツ” という表現がいい。10年、20年かけてつかんだ “コツ” はちょっとやそっとの “コツ” ではない。たとえ小さな気付きだったとしても、その大きさは計り知れない。30年ならば “極意” を得られるのか。40年で “神髄” を体得できるのか。楽器においても同様で、30年弾き続けて初めて分かったことがたくさんある。こんなところにこそ人生の醍醐味がある。ぼくもまだまだ30年、つかんだ “コツ” を活かすのはこれからだ。

  空手を始めたとき『黒帯を取るまでは、空手のことは言わないでおこう』と決めた。稽古の内容次第ではやめなくてはならないかもしれないし、その前に身体がもたないかもしれない。そんな不安要素があったからだ。しかし、そんな心配が無用であることはすぐに分かった。10代には10代の、40代には40代の空手があるのだ。それに、言葉にはしてみたものの実際に黒帯を付けた自分を想像するのはむずかしかった。まずは、基礎体力の向上。そして、歳をとってもステージの上で背筋をシャンと伸ばしていたい。正直なところ、そんな思いを込めての入門だった。

  稽古に通うようになってから2、3年経ったころだろうか。バンドのメンバーにだけは空手をやっていることを伝えた。2011年6月に極真空手においては上級者と言われる2級をいただいたが、それ以来、進級審査を受けてはいない。黒帯が目標と言えるところまで来たのも事実だが、黒帯と茶帯には雲泥の差がある。残念ながら、茶帯のぼくが、このような形で空手をやっていることを発表することになってしまった。
(つづく)

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