その時は、突然やってきた。3月8日午前11時半。笑虎でライブの準備をしていたぼくとテーブルでゆっくりと珈琲を飲んでいた弟の前にひとりの老人が現れた。その顔を見た途端、ぼくは一瞬目を疑い、何が起こったのかを理解するのに数秒かかった。そして、思わず言葉がこぼれた。『Hあんちゃん!』 90歳になろうという大先輩に向かってHあんちゃんはないが、子供のころから家族みんなでそう呼んでいたのだから、他に言いようがない。そう、まぎれもない。その人こそが笑虎の生みの親ともいえる Hあんちゃんだった。

  いきなり 『Hあんちゃん!』 なんて言われたHあんちゃんも目を丸くしている。その眼の奥に控えし脳は記憶をたどり、ぼくが誰なのかを必死で探っている。そして、なぜか後ろを振り向き、弟に向かって言った。「トシちゃんがあ?」 『が』 から 『あ』 を急激にあげる。思い切りの疑問文に弟はにやりと笑い頷いた。そして、 Hあんちゃんはすかさずこちらを向いて言った。「シンちゃんがあ~」 この場合の 『があ』 は 『が』 と『あ』 を同時に発音し、そこから急激にトーンを落とす。余韻を十分に伸ばしてのフェイドアウトも忘れてはいけない。言わば、納得の 『があ』 だ。『があ』 はそのまま、 Hあんちゃんの腑に落ちていった。

  2月22日、個展の初日に続いて、この日、3月8日にもミニライブをすることになっていた。ギャラリーの中、限られたスペースでのライブだ。場所がら大きな音は出せないから、ぼくとゲストミュージシャンとのふたりぐらいがちょうどいい。こじんまりした場所でのライブも実はかなりおもしろい。お客さんとの距離が近いから、ぼくたち演奏者のタッチや息遣いが直接伝わるだろうし、こちら側としてもお客さんの表情が見えるから、反応が手に取るように分かる。大きなホールでのライブとは、また違った格別な味わいだ。今回はぼくとゲストミュージシャンのために、フィル・ジョーンズのアンプを2台持ち込んだ。アンプの進化はすごい。小さいながらクリアーな音で100ワットも出る。それだけではない。このアンプにはインプットがふたつ付いていて、ひとつにはベースを、そして、もう一方にはマイクを入力することができる。PA(音響機材)の代わりにもなってしまうのだ。レストランやギャラリーで使うには十分な音量だし、第一、場所を取らない。ぼくは、今回1971年製のジャズベースと2組のマイクセットを持ち込んだ。

  2月22日のライブには、友人である平田輝が来てくれた。奄美出身のシンガーソングライターで独特の歌声を持っている。彼の存在を知ったのは数年前、ぼくがサポートとして参加しているふとがね金太さんのライブにゲストとして出演したときだ。金太さんの高校の後輩にあたるそうだ。ピアノを奏でながら歌った奄美の島唄が、輝の歌声が心に響いた。ぼくたちは楽屋で意気投合し、すぐに 『マテリヤ』 というユニットを結成することになった。奄美の島唄と彼のオリジナルを演奏するユニットだ。奄美は昔から沖縄の文化圏の一部だった。だから、奄美の島唄も沖縄の島唄と同じ匂いがする。奄美群島のうち沖永良部島と与論島は沖縄音階が多く、それより北の奄美大島や徳之島は律音階や民謡音階が多いと言われているが、奄美の島唄にも沖縄音階 (2度と6度がない、つまりレとラがない)を使ったものがたくさんある。また、薩摩藩の配下におかれていた時期が長かったせいか、ヨナ抜き音階とも呼ばれる日本音階(4度と7度の音、つまりファとシがない)を使う最南端の島とも言われている。時を経て、奄美の音楽は、沖縄音階と日本音階を併せ持つ独特のものとなった。そこには西洋の12音階では表現しきれない“音と音の間の音”がある。その旋律はぼくたちの琴線を否応なしに刺激し、日本人としての原風景を思い起こさせる。そんな国の宝とも言うべき島唄を歌ってきた輝の発声や発音は、彼独自の歌の基となった。だから、彼の歌はどんな歌でも輝節(あきらぶし)になる。日本語の歌どころか英語の歌でも同じように感じさせるのだから、歌い手として大きなものを手に入れたと言っていい。

  ぼくも島唄を歌ってみたくなって、恐いもの知らずで挑戦しているのだが、ぼくの島唄を聞いた奄美の人たちの反応がおもしろかった。ぼくの島唄は、英語の歌のように聞こえるらしい。それはそうだろう。島唄の節回しは演歌のこぶしとは似て非なるものだ。真似をしようにも簡単にはいかない。それでも、挑戦したいという気持ちは揺るがない。いつか、奄美の人たちに納得してもらえるような島唄を歌ってみたい。

  3月8日のライブには同じベーシストであるS氏をゲストに招いていた。彼は成東高校の同級生で、2013年2月23日に千葉ANGAで行われた30回目のBoso Rockで30数年ぶりに会った昔の音楽仲間だ。横芝光からほど近い成東に住んでいる。彼もぼく同様30年以上ベースを弾いている。ベースとベースとのアンサンブルがおもしろいことはよく知っている。誘うとすぐに 「よし、やろう!」 という返事が来た。曲目はメールで決めた。だいたいのアレンジもメールだ。あとは当日の打ち合わせで調整すればOK ということになった。こうして、3月8日はS氏との緊張感あふれるライブを楽しもうと思っていた。「待ったなしだね、じゃ、明日」 と電話で笑い合った次の日、Hあんちゃんが来た。

  父も、母も、弟も、笑虎のTさんも、Hあんちゃんにはぼくの個展のことは伝えていなかった。最近の様子がまったく分からなかったことが理由らしい。皆がそれぞれに無理をさせてはいけないと思ったのだろう。しかし、Hあんちゃん、何かに引き寄せられたかのようにやって来た。自転車でやって来てくれた。

「Hあんちゃん、ハーモニカ持ってる?」
「ああっ、今があ?持ってねえどお~」
「じゃ、持ってきてもらえませんか。一緒にやりましょう!」

Hあんちゃん、ちょっと考えてから弟に向かって言った。
「トシちゃん、車出してくれ!持ってくうべえ」
Hあんちゃんは、踵を返すと弟を急かすように外へ出た。89歳の足取りとは思えない。もうひとりのゲストが急きょ決定した。  (つづく)

Copyright(C)2014 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top