2014年9月21日
ようやく訪れた秋のよき日に
一緒に散歩をしたのは
スペインの若者たちだった

日曜日
喧噪の調布駅を背にして
北へと進む
おだやかな風が吹き抜ける路地を
進んで曲がって
また進んで
目指すは天平5年(733年)開山の深大寺だ

景色と音と会話を楽しみながら進む
たどたどしいスペイン訛りの英語と
あぶなっかしい日本語訛りの英語と
それだけで十分だ

惻隠(そくいん)の情で相手を慮(おもんぱか)れるのは
日本人だけではない
どんな民族にもいる
そんな彼らに
何気ない日本の日常を見てもらえることがうれしい

秋とはいえ
夏は影を引きずったままで
ティーシャツ1枚でも汗ばんでくる
坂をのぼって進んで
またのぼって
1300年の歴史を誇る深大寺は目前だ

昨今、秋は極端に短くなった
秋の存在感のなさは今になって始まった訳ではないが
せめて“来た”という言葉がなじむぐらいであってほしい

この時期、人々の口にのぼるのは
“秋の始まり”ではなく“夏の終わり”だ
“夏が終わる”“夏が去りゆく”とはいうが
“秋の始まり”“秋が来た”とはあまり聞かない
“春が来た”“冬がやって来た”は
当たりまえのように使われるのに・・・

それでも、考えてみると
“そっと”来て
“そっと”去っていくのが
秋のいいところなのかもしれない
そう思い直した

彼らの一人が
家々の前に停めてある自転車を
不思議そうな顔をしながら眺めている

なぜかと聞くと
スペインでは家の中に置くものだという
外に出しておいたら
鍵がかかっていようとなかろうと
あっという間になくなってしまうと・・・

日本は
ちょっと前までは
家の鍵さえ開け放しだった
なんて平和な時代だったのだろう
真の豊かさを
本当の人間らしさを
考えずにはいられない

大きな坂をのぼってちょっとくだると
急ににぎわってきた
深大寺には山門、東門、西門、北門、南門があるが
初めての人を案内するときには
山門から入っていくのが礼儀だ

いきなり鬼太郎茶屋が現れる
スペインの若者たちの顔が一瞬にして赤らむ
彼らは好奇心の塊になって歩く
何度来ても感動するのだから
彼らが興奮するのも無理はない

ゆっくりと本堂、不動堂、鐘楼、元三大師堂、開山堂
等々をめぐった

深大寺は玄奘三蔵を救った水の神、深沙大王を祀っている
深大寺は深沙大王の“深”と“大”から名付けられたのか
なんてことに
今頃になって気づいた
水は命の根源だ
井戸の水は冷たく
水車の水飛沫が心地いい

そこで、ふと、
秋にこそふさわしい言葉が浮かんだ
“気配”
この言葉が一番似合うのは秋ではないか
そう、ぼくたちは秋の気配漂う一日をともに過ごすことができた

帰り際に彼らと写真におさまったのは
大黒さまと恵比寿さまだった
3人は2像の前に歩み寄るとそっと膝を折った
そんな若者たちの前途は明るいに違いない

駅へと向かう道で彼らが楽しげにこぼした
秋葉原に行ってオタクを見たいという
オタクは見るものなのかなと考えつつ
改札まで送った

元気に去っていくスペインの若者たちの背中を見送りながら
ぼくもぼくなりに
短くなった秋を楽しもうと思った

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