ぼくは、生まれもってこのかた、実家の鍵を持ったことがない。どんな鍵なのか、見たこともなければ触ったこともない。小さな頃は当然だったとしても、小学校の高学年になっても、中学生になっても、高校生になっても鍵を持たされることはなかった。ぼくが帰ったときには必ず家に誰かがいたから、と言いたいところだが両親ともに働いていたのだから必ずしもそうだった訳ではない。ふたりとも帰りが遅い日もあった。それでも、なぜか、ぼくたち兄弟が鍵を持つことはなかった。両親とぼくと弟と妹、家族は5人。今思うと不思議だ。一番早く帰っていたと思われるみっつ下の妹が鍵を持っていたという覚えもない。『ただいまっ!』の声はいつも誰かに届いていたのだろうか。母は、ぼくたち兄弟が帰る前に一度帰宅し、3人のうちの誰かが家に帰った後に再び出かけたこともあった。そういえば、帰ると、車で10分ほどのところに住んでいる母の妹が家にいたこともあったような、たまたま帰っても誰もいなくて、両親のどちらかが帰ってくるまで近くの公園で友だちや弟、妹と遊んでいたこともあったような、そんな記憶も頭の中で明滅する。
親がぼくたちの行動や予定を把握していたから、ということもあっただろう。しかし、それだけでは説明できないような気がしてならない。父は教員だったから日々の時間割はだいたい決まっていた。一時、煙草をふかしていたときもあったが、それもわずかな間だけで、酒を飲む習慣もない。芯から真面目な人だから、毎日ちゃんとした時間に帰って来た。それでも、ぼくたちより遅かっただろうことは明白だ。母はある程度は自分で時間の調整が効く仕事に就いていたが、それでも毎日毎日、時間を自由に使えたなんてことは考えにくい。ぼくたちの帰宅時間や夕食の準備を常に心がけていたとしても、思うようには動けなかっただろう。時間的に余裕があったはずもないのだから、高水準で自己管理ができていたと考えるしかない。
鍵を持たされていたのを忘れてしまったということはない。けれど、もしかしたら、両親の帰りが遅くなるときは、鍵をどこかに隠してあったのかもしれないし、そのことをただ忘れてしまっているだけなのかもしれない。それでも、もし、そうであったとしても、そんなことはこのエッセイにおいてはさほど重要なことではない。高校を卒業して東京で暮らすようになると、実家の鍵を持つ必要性は更になくなる。電車を降りて家まで歩いても、横芝駅、あるいは、飯倉駅まで迎えに来てもらっても『ただいまっ!』車で夜遅くに帰るようになっても『ただいまっ!』家の中は、いつでも、そう、本当にいつも、いつでも、子供の頃と変わらない空気で満たされている。歳を重ねた両親がいて、これまた歳を重ねたぼくたちの家がある。
実家の鍵を持っていない、などというどうでもいいようなことを、どうして今更語りだしてしまったのだろう。そんな人は日本中どこにでもいるし、めずらしい話でもないことは分かっている。2015年4月20日、ぼくは、54歳になった。誕生日を静かに過ごしていたときに、未だに実家の鍵をあけたことがないことに、ふと、気付いた。鍵を持たずに実家に帰れることのありがたさを、54歳にしてまだ“子”でいられる幸せを、噛みしめずにはいられなかった。ぼくにとっては実家に泊まるということは、父と母に守られながら寝るということだ。その安心感たるやセコムやアルソックの比ではない。実家にいるときは、54歳であっても母鳥の羽の下でやすむ雛鳥となんら変わりはない。60歳になろうが、70歳になろうが、親の許でやすむとはそういうことなのだろう。
普通のこと、当たり前のこと、とみなされているものの中に、時々、きらりと光るものがある。あまりに近過ぎて見えないものがある。手の内にあるのに、忘れていたり、気づかずにいるものが真理だったり、核心だったりすることがある。例えば、ベーシストにとって、どんなフレーズが弾きにくいかというと、同じ指を続けて使わなくてはならない時だ。あれ、このフレーズやけにむずかしい、とか、うーん、なぜかうまく弾けない、と思うのは、意外や意外、同じフレットの隣の弦への移動が必要なときだったりする。そんなときに“本当のむずかしさ”を知る。54歳、鍵は、“当たり前のこと”、“目の前にあること”なのだと自分に言い聞かせて進むことにする。迷いのない一歩を踏み出したい。
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