『セッション』と『JIMI:栄光への軌跡』を観た数日後、国際線の飛行機の中で4本の映画を見た。2015年のBARAKAのヨーロッパツアーは、いつものように行程はきつかったが、毎日は充実していた。帰りの機内では、疲れてはいたが、ホッとした部分もあって、映画を見ようという気分になった。最近の国際線の映画は充実していて、50本以上の映画の中から好みのものを選べる。もちろん、好きな時間に見られるしトイレ休憩もOKだ。このような状況では、ぼくは、基本的には日本の映画を選ぶ。海外のアクションやコメディ、サスペンス映画も見ないではないが、まずは、日本映画からチェックする。おもしろそうな映画はないか、とタイトルを目で追いながら興味の湧いた映画から順に見て行くことにした。
まずは、『深夜食堂』(松岡錠司監督)を選んだ。『深夜食堂』は、深夜0時から朝7時頃までの深夜営業をしている“めしや”という店が舞台の映画だ。メニューは、トン汁定食、ビール、酒、焼酎だけだが、小林薫演じるマスターができるものなら、頼めば何でも作ってくれる。そんな一風変わった店に訪れる客たちとマスターの交流を描いていた。主役の小林薫の飄々とした存在感はさすがだった。いい味を出している。だが、脇を固める俳優たちのうちの何人かが物足りない。昭和の時代には、名わき役と讃えられた俳優があれほどたくさんいたのに、と思うと残念でならない。もちろん、今でも名わき役はいるが如何せん層が薄い。層の薄さは、音楽や文学等他の芸術においても、また、プロスポーツの世界においても見受けられる。
次に、『繕い裁つ人』(三島有紀子監督)という映画を見た。まずは、テーマがいい。祖母が始めた小さな洋裁店を継いだ2代目の店主・市江と洋裁を通して彼女を取り巻く人々との交流を描いた物語だ。市江役・中谷美紀の抑えた演技が心地よく、静かに淡々と進むストーリーと落ち着いた映像にも好感が持てた。この映画では、台詞が少ないところも魅力のひとつだ。日本映画の良き伝統がみてとれる。ただ、残念なことに、この映画でも準主役に物足りなさを感じてしまった。適役は他に何人もいたはずだ。こう主役と相手役のバランスが悪いと、制作費の問題なのかなと穿(うが)った見方をしてしまう。
次に選んだのは『バンクーバーの朝日』(石井裕也監督)という映画だ。戦前のカナダ・バンクーバーに実在した日系人野球チーム“バンクーバー朝日”を描いた作品で、実話を基に作られている。だからか、ストーリーは感動的でリアリティもあるのだが、どうしても役者陣に不満が残る。特に、主役級の数人に違和感を覚えた。どうしても戦前の若者に見えない。現代の若者が当時の若者を演じている、という感が拭(ぬぐ)いきれないのだ。戦前の青年がそんな仕草をするか?そんな表情をするのか?と、何度も突っ込みを入れたくなってしまった。時代物を演じるならば、いや、それだけではない。自分以外の“人間”を演じるならば、もっともっと“人間”を勉強してほしい。本を読んでいるか?音楽を聴いているか?絵画を見ているか?映画を観ているか?取り繕った演技は、スクリーンを一瞥しただけで感じ取られてしまうものだ。観客はそれほど甘くはないよと伝えたい。
3本見たところでさすがに目が疲れてきた。ちょっと寝ようか、でも、時間的にはもう1本見れるな、どうしようか、などと考えている時に目に入ったのが『マエストロ!』(小林聖太郎監督)だった。この映画だけはテレビで宣伝を目にしたことがあったから、西田敏行が主演で、彼が指揮者役だということは知っていた。コメディ映画だろうと思っていた。迷った挙句、ものはついでだと期待せずにスタートボタンを押してみたのだが、思わず見入ってしまった。解散を余儀なくされたオーケストラの元団員や年老いた演奏家が、謎の指揮者によって集められ演奏会を開くという物語。その過程で、指揮者や各演奏者の音楽にまつわるエピソードを描き、それらを通して“音楽とは何か”という大きなテーマを追求するという映画だった。テーマが図抜けて素晴らしい。『セッション』を観たばかりだったからか、『セッション』におけるフレッチャーという独裁指揮者と『マエストロ!』の天道徹三郎という指揮者の“団員に対する言葉や振る舞い”を自然に比べていた。自分の欲のためにタクトを振るフレッチャーと、“天籟”(てんらい)に少しでも近付きたいとタクトを振る天道徹三郎とでは、言葉も行動も生き方すべてが180度違っていた。
“天籟”(てんらい)とは
① 天然に発する響き
② 風がものに当たってなる音
③ 優れた出来栄えの詩歌のたとえ
とあるが、この映画の中では
① 音のない音
② 静寂の中、宇宙から降り注ぐ音
という意味で使われている。
天籟とは、自然が奏でる音ということだ。髪をなでるそよ風、唸りをあげる大風、小川のせせらぎ、大河の流れ、波の音、雨の音、雷の音、木々のざわめき、朝露の滴、そして、静寂の音。自然界の音すべてが天籟なのだ。地球の声や宇宙のつぶやきに少しでも近づきたい、と人々は古代から楽器を奏で、歌ってきた。音楽の究極の目的はそこにある。自然に近づくということだ。そよ風が揺らす木の葉の擦れあう音よりも優しい音を聞いたことがあるだろうか。天を劈(つんざ)く雷の音よりも激しい音を聞いたことがあるだろうか。音楽家はたかだか、80年、90年の命を使ってそこに近づこうとする。“目指す音は目の前にあるが、辿り着くには人生を何度か繰り返す必要がある”と言われる所以(ゆえん)だ。
この素晴らしいテーマを持った映画『マエストロ!』にも気になるところはたくさんあった。(※はははは(笑)・・・。一体、ぼくは何様なんだ?こんなにも好き勝手を言ってしまっていいのか。映画関係者の皆さんには申し訳ないが、まったくもって個人的な意見です。どうぞ、お許しを。続けます。)『マエストロ!』にもここはどうか、と感じるところがあった。まず、天道徹三郎の風貌と言葉遣いだ。彼のえげつない関西弁や下ネタは必要だったのだろうか。キャラクターを作り過ぎてはいないだろうか。彼がしゃべる度にトゥーマッチ感がスクリーンを横切った。この点は、最後まで変わらなかった。天道徹三郎の人物像にもっともっと迫ってほしかったと。“どういう人生を送ってきたのか”について描かれてはいるのだが、中途半端で、その点だけでも観客の彼に対する感情移入を妨げてしまっているように思えた。また、彼の妻の話も唐突だった。彼には、病院暮らしが長く余命幾ばくもない妻がいて、最後に突然、妻ひとりのためにコンサートを行うのだが、この点も取って付けたように感じられた。映画全体の流れがいびつになっている、と言われたとしても言い訳はできないだろう。
団員たちの演奏する姿にも幻滅した。キャストにおいて、団員には楽器ができる人を多く使ったとどこかに書いてあったが、まったくなっていない。演奏する姿が様になっていないのだ。主役からしてバイオリンに慣れていないのが見え見えなのだからため息が出る。せめてもう少し楽器を練習してから撮影に入ってほしかった。その点、『セッション』は、徹底していた。団員の誰もが楽器のスペシャリストに見えた。内容はともかく、こういったところで絶対に突っ込ませない、というアメリカ映画の精神は学んだ方がいいと思う。でないと、せっかくの映画が台無しになってしまう。
なぜ、ここまで継ぎ接ぎのような構成になってしまったのか、その理由のひとつを後で知った。実は、この映画は、漫画を映画化したものだった。きっと、漫画のストーリーを大事にし過ぎたのだろう、忠実であろうとし過ぎたのだろう。いくつもの要素を詰め込み過ぎた挙句の完成だったのではないだろうか。驚いたことに『深夜食堂』も『繕い裁つ人』も原作は漫画だった。『バンクーバーの朝日』にしても、ドキュメンタリー小説が原作とはいうものの、すでに漫画化されていた。日本の漫画、アニメが世界を席巻している理由がここにもある。日本における文化のリーダーは漫画の世界に多くいるのだろう。映画の話に戻る。『マエストロ!』が、漫画の映画化だったとしても、もっと、焦点を絞って構成することもできたはずだ。脚本の段階で作品の出来は決まっていた。映画とは本当にむずかしいものなのだな、とつくづく思う。テーマ、ストーリー、構成、キャスト、演技、音楽、その他すべてが完璧の域に達していなければ、名作、名画とは言われない。その高みを目指し、限りなく完璧に近づいた監督だけが名監督と言われるのだろう。『マエストロ!』は、テーマが素晴らしいだけに本当にもったいない作品となってしまった。
『セッション』と『マエストロ!』ふたつの音楽映画を通して感じたことを綴ってきたが、観てきた音楽映画は他にもたくさんある。いい機会だから、もう少し音楽映画について考えてみようと思う。 (つづく)
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