俳句は、五・七・五という形式で表現される日本独自の文芸で、世界で最も短い詩だと言われている。俳諧(連句)の発句(第一句目)が独立したものだ。辞書には『元は、連句の各句をもさしたが、明治中期、正岡子規が俳諧革新運動において、旧派の月並み俳諧における「発句」に抗する意図でこの語を使用した。』とある。五・七・五であることと、季語を含むこと、約束事はこのふたつだけだ。季語を含めたわずか17文字で、情景を、感情を、感動を、1枚の写真のように見える形で表現する。俳句とは、まさに、凝縮の芸術だと言える。俳句や和歌のように字数が制限されているという点では、作詞も同じだ。特に、曲先(きょくせん)と言われる場合がそうで、できあがったメロディーの音符の数にあわせて歌詞を付ける。1番と2番の歌詞も文字数については、基本的には同じでなければならない。ちなみに、できあがった詩に対してメロディーをつけるのを詩先(しせん)という。この場合でも、曲をつけやすいように文字数は揃っている方がいい。あくまでも、1音符に1文字をあてる曲での話であって、ラップや、1音符に対して複数の文字をあてる昨今の曲とは別だと考える方がいいかもしれない。そういえば、ジョン・レノンは、俳句から影響を受けて、というより、俳句に憧れて『Imagine』や『Love』を書いたそうだ。歌詞を見れば一目瞭然。機会があったら、ぜひ、目を通してみてほしい。
俳句が趣味という訳でもないし、素養もないのだが、ある俳人のことがずっと気になっていた。最近もまた、彼の言葉がぼくのアンテナに引っかかって来たから、彼と彼の作品について考えてみることにした。本やテレビでたまたま見かけたり、目に触れたりした彼の言葉が、なぜか心に引っかかって残っているのだ。彼の作品の話をする前に、俳句について、ちょっとだけ振り返ってみたい。ぼくたち普通に生活をしているものにとって、俳人の中で一般的に知られているのは、松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村ぐらいだろう。中学校の教科書には必ず出てくる名前だし、有名な俳句の多くが彼らの作品だ。代表的な句をいくつかあげてみよう。この句なら知っているという方も多いと思う。ちなみに、3人とも江戸時代の人だ。
<松尾芭蕉>
古池や蛙飛込む水のおと
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
夏草や兵(つわもの)どもがゆめの跡
五月雨を集めて早し最上川
秋ふかし隣は何をする人ぞ
<小林一茶>
我と来て遊べや親のない雀
痩せ蛙負けるな一茶是に有
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
目出度さもちう位也おらが春
これがまあ終のすみかか雪五尺
名月をとってくれろと泣く子かな
やれ打つなはえが手をすり足をする
<与謝蕪村>
菜の花や月は東に日は西に
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
釣鐘にとまりてねむる胡蝶かな
遅き日のつもりて遠きむかしかな
夏川をこすうれしさよ手にぞうり
芭蕉は、不易流行を説いた人だ。不易とは、時間にとらわれないもの、変わらないもの、という意味。流行は、その時々に応じて変化してゆくもの、という意味だ。芭蕉は、俳諧の本質的な性格を静(不易)、動(流行)のふたつの面から把握しようとした。彼の達観した言葉を理解するのは簡単ではないが、噛み砕いて言うと、どちらも大切であるということだ。不変的な基礎を無視しては真の革新はありえないし、時代と共に革新していくことが本質である、ということではないだろうか。彼の作品は芸術的で、“品格”さえ漂う。一茶には“愛”がある。改めて読んでみると、金子みすゞという詩人を発見したときと同じような感覚が湧いてくる。目線が低い。命を持つものすべてに向けられた愛しさがそのまま伝わってくる。蕪村も“優しい”。繊細な人だったのだろう。人生の素晴らしさを、生命の尊さをそっと教えてくれる。ほのぼのとした気分にさせてくれる俳人だ。
3人の作品に共通するのは、一点の隙もないということだ。バランスがいい。ここにはこの言葉しかない、という極限まで考え、選び抜かれている。もし、直観だったとしても、これほどのバランスで言葉を並べられるだけの直観力、観察力を身に付けていたということだ。いやはや、恐れ入る。こんな句をサッと作れるようになってみたいものだ。さて、もうひとり、前出の俳人、正岡子規の作品もあげてみよう。
<正岡子規>
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
島じまに灯をともしけり春の海
赤とんぼ筑波に雲もなかりけり
松山の城を見おろす寒さかな
夜の露もえて音あり大文字
恥ずかしながら、ぼくは、子規の作品は、法隆寺の句しか知らなかった。俳句を知らないついでに言ってしまうが、明治の大俳人子規も江戸時代の3人と比べると少々かすんでしまうような気がするのだがどうだろう。(子規先生、すみません!)
それほど、芭蕉、一茶、蕪村はすごかった。いや、すごい。子規に対して、ずいぶんと失礼なことを書いてしまったが、彼の本領は、きっと、別のところにあったのだと思う。長く続いた俳諧を俳句として甦らせた人であり、Baseballを野球と訳した人は、言葉のプロデューサー的存在だったに違いない。それにしても、みんな、人間を、命を、時間を、よく理解していると思う。日本人の美意識は、彼らのような言葉の達人たちからの影響も多く受けている。世阿弥の芸術論、千利休の侘び寂び、そして、俳諧・俳句・和歌等、日本語が紡ぎだす言の葉。これらを日本語で理解できるだけでも幸せだ。7月末日、ぼくは、横芝光町の実家の2階でパソコンに向かっている。2階にエアコンはないから、窓は全開、時々、いい風が入ってくる。蝉の声も心地いい。冷えた麦茶と気持ちよさそうに首を振る扇風機も日本の夏とは切り離せない。ん?扇風機?洒落たネーミングじゃないか。この言葉を考え出した人の感性も素晴らしい。
さて、ずっと気になっていた俳人とは誰か。『分け入っても分け入っても青い山』という句の作者であり、今回のタイトルである『何を求める風の中行く』という句を詠んだ人、種田山頭火だ。山頭火ってラーメン屋の名前なのでは?という声も聞こえるが、このラーメン屋さんも趣味がいい。さあ、山頭火の至極の句を味わってみてほしい。ここには、言葉の芸術の行きつく先がある。
<種田山頭火>
●第一句集『鉢の子』(抜粋)1932年
生死の中の雪ふりしきる
笠にとんぼをとまらせてあるく
歩きつづける彼岸花咲きつづける
まっすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
どうしようもないわたしが歩いている
すべってころんで山がひっそり
つかれた脚へとんぼとまった
捨てきれない荷物の重さまへうしろ
あの雲がおとした雨にぬれている
こんなにうまい水があふれている
まったく雲がない笠をぬぎ
墓がならんでそこまで波がおしよせて
酔うてこうろぎと寝ていたよ
雨だれの音も年とった
物乞ふ家もなくなり山には雲
よい湯からよい月へ出た
笠へぽっとり椿だった
●第ニ句集『草木塔(そうもくとう)』(抜粋)1933年
水音しんじつおちつきました
すッぱだかへとんぼとまろうとするか
かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た
何が何やらみんな咲いている
山のいちにち蟻もあるいている
雲がいそいでよい月にする
(帰庵)ひさびさにもどれば筍によきによき
●第三句集『山行水行(さんこうすいこう)』(抜粋)1935年
夕立が洗っていった茄子をもぐ
山のあなたへお日さま見おくり御飯にする
お月さまが地蔵さまにお寒くなりました
落葉を踏んで来て恋人に逢ったなどといふ
ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない
何もかも雑炊としてあたたかく
閉めて一人の障子を虫が来てたたく
ともかくも生かされてはいる雑草の中
●第四句集『雑草風景』(抜粋)1936年
日かげいつか月かげとなり木かげ
なんぼう考えても同じことの落葉ふみあるく
悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか
枯れゆく草のうつくしさにすわる
空へ若竹のなやみなし
何を求める風の中ゆく
●第六句集『孤寒(こかん)』(抜粋)1939年
ひなたは楽しく啼(な)く鳥も啼かぬ鳥も
藪から鍋へ筍(たけのこ)いっぽん
風の中おのれを責めつつ歩く
なんとなくあるいて墓と墓との間
咳がやまない背中をたたく手がない
窓あけて窓いっぱいの春
う~ん、なんという臨場感、凄まじいまでの現実感。素直な心の叫びをそのまま言葉にしているだけだというのに響いてくる。『まっすぐな道でさみしい』『こんなにうまい水があふれている』『ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない』これらは、どの句もありふれたことを言っているようだが、おそろしいまでに深く、このような言葉を作品にしてしまう感性は常人のそれではない。『雨だれの音も年くった』『悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか』『窓あけて窓いっぱいの春』『酔うてこうろぎと寝ていたよ』なんて、涙が出るほど切ない。それにしても、なんだろう。この“爽快感”は、“心地よさ”は・・・。
種田山頭火は、大正・昭和の俳人で、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる“自由律俳句”というスタイルに行きつき、それを突き詰めた人だ。山頭火の言葉を前にしたら、俳句だろうが詩だろうが、形式なんて関係ないと思えてくる。画家ならばファン・ゴッホ、版画家ならば棟方志功、ぐらい突き抜けている。彼の句には、これ以上の説明は必要ないだろう。
何を求める
風の中行く
これからもうしばらく、この言葉を噛みしめて歩いてみようと思う。 (了)
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