昨年の11月、知り合いから『パーソナル・ソング』という映画の試写会チケットをいただいた。パーソナル・ソング?はて、どんな意味だろう。すぐに、フライヤーを手に取った。そして、次の木曜日の夕方、ぼくは、試写会の会場にいた。映画は、2014年、サンダンス国際映画祭のドキュメンタリー部門で観客賞を受賞した注目の作品だった。サンダンス国際映画祭は、インディペンデント映画の国際的な登竜門として知られ、毎年、世界中から8000本を超す応募作品が集まるインディペンデント映画の殿堂とも言える映画祭だ。サンダンスでは、審査員や観客から高い支持を得て、監督本人も予期していなくて驚いたという観客賞を受賞した。この映画のタイトルである『パーソナル・ソング』は邦題で、“思い入れのある曲”という意味で使われている。原題は『Alive
inside』。直訳すると、“中は生きている”となる。確かに、日本語にはなりにくい言葉だ。原語と日本語の表現方法の違いがよく分かる。この映画は、その後もカナダやイタリアの国際映画祭で、監督賞や観客賞を受賞し続けている。『パーソナル・ソング』は、“音楽の力”を、“音楽の持つ力のすごさ”を、まざまざと見せつけてくれた。試写会が行われた小さな映画館では、映画が始まるとすぐに、そこにいたすべての人の意識がスクリーンに引き込まれて行くのが分かった。あっという間のことだった。
この映画には、『1000ドルの薬より、1曲の音楽を!』というキャッチコピーが付いている。認知症に苦しむ人たちにとって“音楽こそが一番効果的な特効薬である”ということを実際の映像で訥々と語っているのだ。ソーシャル・ワーカーのダン・コーエンは、もともとはIT業界の人だった。そんな彼が、認知症の人にiPodで思い入れのある曲を聴かせれば、曲の記憶と共に当時の自分や家族のことを思い出すのではないか、ということを思いつく。彼は、実際に施設に行って認知症を患っている黒人男性ヘンリー(94歳)に音楽を聞かせてみた。映画は、その時の映像から始まっている。
ヘンリーは、10年以上も施設の中でふさぎ込んでいた。娘の名前も思い出せない、自分の名前も忘れてしまっていた。彼は、見ているとも、見ていないとも判断の付かないうつろな瞳で、ただ空(くう)を見つめていた。車イスにうずくまり、頬杖をつき、生きる気力などまったく失くしているように見えた。ヘンリーが、かつて熱心に教会に通っていたという情報から、彼にゴスペルを聴かせてみたらどうだろう、ということになった。そして、彼の耳にヘッドホンをかけ、iPodでウォルター・ホーキンスの『ゴーイン・アップ・ヨンダー』をかけた。
音が流れた瞬間、ヘンリーは頭をあげ、目を大きく見開いた。そして、言葉を発した。「歌ってもいいのかい?」ヘンリーは歌う。リズムに合わせて体を動かし歌った。音楽が終わっても興奮は収まらない。陽気な表情で活き活きと語りだした。「音楽は昔から大好きだ。一番好きだったのはキャブ・キャロウェイさ!」その豹変ぶりには、驚かずにはいられなかった。そして、ヘンリーは、若いころ、自転車が好きだったこと、仕事でお金をもらった時の喜び等、次々と記憶を取り戻した。
『レナードの朝』の原作者であるコロンビア大学医科大学院教授オリバー・サックス医師はこう語る。『音楽は感情に訴えかけることができるので心を呼び覚ますことができる。脳の様々な領域に届き当時の記憶を蘇らせる。そして、認知症によって混乱してしまっている思考や言語の部分とは違う運動や感情の領域と結びつくために認知症によるダメージが少ないのだ』と。
ヘンリーの変化を見て確信を持ったダン・コーエンと『パーソナル・ソング』の監督であるマイケル・ロサト=ベネットは、この、音楽で記憶を取り戻すという音楽療法を『ミュージック&メモリー・プロジェクト』と名付け、3ヶ所の施設でスタートさせた。映像スクリーンには、認知症やアルツハイマーで記憶をなくしてしまった人たちが、音楽を聴くことによって記憶をよみがえらせる姿が次々と映し出されていた。
音楽の力とはこれほどのものだったのか。この映画は、音楽を生活の中心に据えて生きているものに対し、責任感や使命感を思い起こさせるに十分な説得力をもっていた。音楽をやっている意味を、音楽を作り続ける意味を、深いところで考えさせてくれる映画だった。
ぼくたちが、今、人間としてこうあるのは、脳の働きによるところが大きい。絵や音楽を美しいと感じるのは、大脳新皮質や前頭葉の一部である内側眼窩(がんか)前頭皮質と呼ばれる領域が発達してきたおかげだ。しかし、もっと、根源的な意味で、生物には音楽が不可欠だったと知ったことが、この映画からの何よりの収穫だった。
映画の中で、こんな件(くだり)があった。『はるか昔、ひとつの細胞が細胞分裂でふたつの細胞になった。その時に何が起こったか。細胞分裂でふたつになった細胞から“鼓動”が生れたのだ。』そう・・・。その音こそ、あの聞き慣れた心音だ。細胞が二つになった時点で、ドッ、ドッ、ドッ、と脈打つリズムが生まれたのだ。音楽は、五感が生れる前から存在していたと言ってもいい。生物の歴史は、音楽と共にあったのだ。
音を奏で続けよう。音を紡ぎ続けよう。太古の昔から離れることなく歩んできたリズムと共に。 (了) |