12月になると世の中が急にあわただしくなる。新たな年を迎える前にイベントが目白押しだ。本命は、今や国民的イベントとなったクリスマス。本来はキリストの誕生を祝う祭のはずが、我が国ではカップルの愛の祭典となり、子供にプレゼントをあげる日となった。家族や仲間が集って一緒に食事をする日でもある。12月になった途端に、国中でクリスマス・ソングが流れ、いたるところでイルミネーションが輝き始める。古来、日本人は、神はどこにでも存在すると考えてきた。日本は、八百万(やおよろず)の神々に守られた国なのだ。そんな日本人のおおらかな資質は、仏教やキリスト教など海外の神をも受け入れてきた。多くの人が、神社も寺も同じように大切にしているし、誰もがクリスマスは元々キリスト教の記念日であることを知りながらも、自分たちなりの楽しい時間を過ごそうとしている。キリストの誕生日が“年末”だったということが、クリスマスがこれほどまでに大きなイベントになった理由のひとつだろう。クリスマス・プレゼントには1年間がんばったご褒美という意味合いもある。12月25日は、年の終わりに向け、国民すべてがある種の興奮状態に陥っている中でのカウントダウンの1日なのだ。

  その証拠に、12月25日を過ぎ26日になると、ぼくたちは一瞬にして正月モードへと舵を切る。クリスマスの喧噪にあっという間に見切りをつけて、大みそかへとなだれ込む。歌舞伎の舞台が瞬時にして転換されるのにも似ている。天晴れ日本人、その切り替えの見事なこと。12月26日から31日までの6日間は、真っ新(さら)な年を迎えるために、誰もが帳尻合わせに必死だ。この時期、ぼくたちの心は、“具合が悪いことはなかったことにしよう”、“まずいことは除夜の鐘と共におさらばだ”、などと自分に都合のいい思考に陥りがちだ。“今年は60点だったな”、とちょっと大目に見てもいいような気分になる。国全体が少し浮かれたような雰囲気になるのだから、乗っからない手はない。その方が居心地はいいに決まっている。すべてを良(よし)としたら、あとは蕎麦を食べて、紅白歌合戦を見ながら、あるいは、格闘技の試合を見ながら一杯やって年が明けるのを待つだけだ。年が明けたら初日の出と共に新しい自分がスタートを切る。

  “余すところあと何日”、“何日を残すばかり”こんなことばかり言っていると、しっぺ返しをくらうこともある。12月30日から見た1月4日は遠い。遥か先のことだと錯覚してしまうが、考えてみると、12月30日と1月4日の間は12月31日、1月1日、2日、3日のわずか4日しかない。12月30日からみた1月4日は、来年でありながら、来月であり、来週でもある、ということだ。時間的には、7月2日と7月7日の関係となんら変わりはない。ちょっと考えれば誰にでも分かることなのに、どうにも心が付いて行かない。

  野球やバスケットの試合を見ていても同じようなことを感じることがある。野球の場合、同じ3アウトでも初回と最終回ではまったく意味合いが違う。早い回に点を取られても残りの回で逆転すればいい。バスケットも同様で第1ピリオドで何点リードされようと残りの3ピリオドで逆転することは可能だ。しかし、最終回や第4ピリオドには後がない。この“後がない”ということが人間の意識に大きな影響を与えているとしか考えられない。負けられない、後がないという思いが“緊張”に繋がり、緊張が心を縛る。最終回に殊勲打を放つことのできる打者や残り数分でシュートを重ねられるバスケットプレイヤーがもてはやされるのは理に適っているということだ。誰にもできる訳ではないのだから、瀬戸際に強さを発揮できるというのは特別な能力なのだろう。このような能力を身に付けるには、精神の修練が必要だ。スポーツにおいても、身体的な力よりも精神力がものをいうということは実証されている。

  10年前の2006年1月1日の“六の葉”に1年は365日ぐらいでちょうどいいと書いた。2倍の730日でも半分の182日でもダメなのではと書いた。その思いは変わらない。こう書くことで地球が太陽を1周するのに365日かかるということ、そして、地球は24時間かけて自転している、ということを思い出す。

  年の瀬、師走、歳末、大みそか、年の果て、年の限り、年の尾、年の末、年の別れ、年の終わり、年暮れる、年迫る、年満つ、年尽くる、年流る、年逝く・・・。これらは、すべて年末を表す季語だ。日本人の繊細さ、芸術性、それに遊び心まで感じられる。今年も残り数時間、この国ならではの大晦日と三が日の空気をたっぷりと味わいたい。

  皆さま、どうぞ、よいお年をお迎えください。 

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