1月31日の日曜日、今日は2016年になってから初めての休みだった。休みとは言っても“エッセイを書く日”と予定してあったので、厳密には休みとは言えない。それでも、久しぶりに目覚まし時計をかけずに寝ることができた。「起きる時間を決めずに寝られる。思う存分寝られる。ああ、なんて幸せなことなんだ」と2、3日前からわくわくしていた。そんな思いで30日を過ごし、仕事が終わった後は朝方までゆったりした。そして、6時ごろ床に就いた。

  今年の1月は、元旦の大書から始まってライブが続き、気を引き締めて向かわないといけない日々の連続だった。1日1日をしっかりと、きちっと、過ごすことを心掛けた。その結果、1月を無事に終えることができた。心地のいい緊張感の中、精一杯の毎日だった。

  目覚めたのは、午後1時半だった。熟睡できた。いや、寝すぎか。少しボーっとしていた。まずは腹ごしらえだ。ぼくは、基本的に起きたらお腹がぺこぺこだから、すぐに何かを食べたい。日曜日でもやっている近所の茶房に行くか、自分でなんとかするか。迷った挙句、自分でどうにかすることにした。茶房ではコーヒー付のランチが980円。バランスや内容は申し分ないのだが、なるべくならば節約したい。結局、コンビニでマカロニサラダ(120円)とかぼちゃのサラダ(120円)、そして、ハンバーグ(120円)を買った。家には玄米ご飯が炊いてあるし、コーヒーは、年末に美味しそうなコーヒー豆をたくさんいただいたのでそれを淹れればいい。今日の朝食は360円で済んだ。

  月曜日から土曜日にかけては、録画してある朝ドラを見ながら食べる。今日は日曜日だから、録画してある他の番組を見ながらの食事だ。何気なく選んだのは、庄川を遡(さかのぼ)りながら、五箇山と白川郷にある合掌造りの里を紹介していく番組だった。晩秋の庄川は凛々しい。以前、白川郷に行ったことがある。合掌造りの家々は、古代からの日本人の変わらない日常を見るようで、なんとも言えない懐かしさを感じた。次は五箇山に行ってみたい。

  テレビ画面は、岐阜県“ひるがの高原”にある分水嶺公園を映し出した。そこには文字通り“分水嶺”があった。白山山系や大日ヶ岳から流れてきた水は、この分水嶺を境に、太平洋側と日本海側に分かれて流れて行く。小さな小川がふたつに分かれているだけなのに、その水の行方はまったく逆の方向へと進むことになる。北側に傾いた水は庄川を辿り富山湾へ、南に進路を取った水は長良川となり伊勢湾へ。何気なく見える水の分かれ道、その果ては日本海と太平洋なのだ。

  律令制に基づいておかれた律令国の境は、水の流れが基になっていた。多くが尾根筋を国境(くにざかい)とした。尾根を境に気候や植生が変わり、文化までもが違うのだから水の流れで国を分けることは理に適っている。ヨーロッパでも水の流れが国境を決めてきたという。

  誰もが多くの分水嶺を辿ってきた。“あの時、あちら側に行っていれば”、“どうしてあの時・・・”などと思うことがあるかもしれない。自分で決めたかったのに、どうしても一方の道に力が向いてしまった、ということがあるかもしれない。ここで運命という言葉を使っていいのかどうか悩むところだが、ぼく自身、たかだか54年の人生の中で、大きな運命の力が働いているとしか思えないようなことが何度かあった。人生はこれからも続くから、結果的に、それが良かったのかどうかはまだ分からない。それでも、今、毎日を笑顔で過ごせているのだとしたら、それで良かったのではないだろうか。そう思いたい。 

  運命の話なんてあまりにも大きすぎて、ぼくなんかの出る幕ではなかった。こんなときにこそ、人生の先輩方の知恵を仰ぎたい。机には本が山積みになっている。『代表的日本人』、『南洲翁遺訓』、『かもめのジョナサン<完成版>』『レミー・キルミスター自伝』、ポンタさんの『俺が叩いた。』どの本も楽しみでならない。

  水は高い方から低い方へと流れる。こんな当たり前のことを突き付けられただけで、ぼくたちはハッとして感動する。文明は日進月歩で進歩しているように見えるが、まったくもって危うい。星の動きひとつで、地球の機嫌ひとつで、ぼくたちはそれらを一瞬にして失うことになる。それを示す証拠の断片をここ数十年の間に何度も目(ま)の当たりにしてきたではないか。その上、人間同士の争いは留まるところを知らない。人としてこの星で生きていられること自体が“奇跡”だということをもう少しだけ、頭の中に入れて行動して行きたい。もっともっと謙虚に暮らしたい。

  2016年も12分の1が過ぎた。あとの12分の11をどんなふうに過ごせばいいのか、分水嶺がヒントをくれたようだ。 (了)

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