2001年から16年、変わらずに続けていることがある。ぼくは、朝起きて最初にそれをする。儀式と言ってもいい。今年で16年目の習慣ではあるが、正確に言うと毎日のことではない。3月末から10月頭にかけての約7ヶ月間に限ったことだ。ぼくが、毎朝、顔を洗う前にすることとはなにか。“イチロー選手”の成績のチェックだ。当初はテレビやネットのニュースで、2008年以降はアイフォンでチェックしている。ヒットを何本打ったかを確かめるのだ。打数は、打率は、ヒットの内容は、盗塁は・・・。こうして、ぼくの一日はイチローの打撃チェックから始まる。言わずと知れたイチローだが、万が一にも、彼を知らない人がいては困る。簡単に経歴を紹介しよう。
イチローの本名は鈴木一朗。1973年10月22日、愛知県西春日井郡豊山町で生まれた。今年43歳になる。小学校時代は地元の少年野球チーム、豊山町スポーツ少年団に所属しエースで4番として活躍した。6年生の時には全国大会にも出場している。豊山町立豊山中学校に進学後もエースで中軸を打ち、全日本少年軟式野球大会に出場し3位となった。学校での成績も優秀だったらしい。学年では常にトップ10に入っていたそうだ。なるほど、彼の言動がスマートなのはそんなところにも理由があるのかもしれない。当然のように、多くの高校から誘いがあったが、彼が選んだのは愛工大名電(愛知工業大学名電高等学校)だった。名門野球部で1年生からサードを守りレギュラーとして活躍、また、2年生の時はレフトで、3年生の時はピッチャーとして甲子園にも出場している。残念ながら、甲子園の舞台では2度とも初戦敗退に終わったが、驚くことに3年生の時の地区予選では打率が7割を超えていた。この数字がどれほどすごいか、少しでも野球を知る人ならば分かるはずだ。尋常ではない。イチローの高校時代の成績が残っている。この数字も紹介せずにはいられない。高校3年間で、通算536打数269安打、打率.501、本塁打19本、3塁打28本、2塁打74本、盗塁131。なんと5割以上の打率を残している。う~ん、唸るしかない。すごい、こんなに打てたなんて楽しくてしょうがなかっただろうな、と羨望と尊敬の念は募るばかりだ。
彼は高校を卒業するとドラフト4位でオリックスブルーウェイブに入団した。さすがのイチロー選手もプロで1年目から大活躍という訳にはいかなかった。1年目から1軍の試合には出ていたものの、当時の監督ら首脳陣からバッティングフォームを直すよう命じられた。普通ならば、問答無用で「はい!」と答えるだろう。しかし、彼はそれを拒絶した。高校出の新人が首脳陣の指令に背くなんて考えられない。果たして、19歳の少年にこんな決断ができるものだろうか。この逸話からもイチロー選手の“凄味”が伝わってくる。“自分を信じ抜く力”を持っていたということだ。『誰がなんと言おうと自分の道を行く』、言葉にするのは簡単だが、実際に行動に移せる人は少ない。彼はこの年、ウエスタンリーグで首位打者となり、ジュニアオールスターでは代打決勝ホームランを放ちMVPと賞金100万円を獲得した。そして、賞金全額を神戸市の養護施設に寄附した。
転機はプロ3年目、1994年のシーズンだった。仰木彬が監督に、新井宏昌がバッティングコーチに就いた。ふたりは、すぐにイチローを理解した。そして、仰木監督のアイデアで登録名を『鈴木一郎』から『イチロー』変えた。イチローの誕生だ。その後の活躍はご存知の通り。イチローの運命がふたりの指導者を引き寄せたとしか思えない。彼は、この年から7年連続で首位打者となり、日本で活躍した9年間の通算打率は3割5分を超えた。
次から次へと記録を塗り替えたイチローは、2001年、アメリカのシアトルマリナーズに移籍しICHIROとなった。27歳だった。1年目から首位打者と最多安打のタイトルを得て、2010年まで打率3割と200本安打を続けた。10年連続で200本以上打ったのは、長いメジャーリーグの歴史の中でもイチローただひとりだ。打つだけではない。守備の勲章とも言えるゴールデングラブ賞も10度獲得している。彼は打てて、守れて、走れる、いわゆる三拍子そろった選手だ。2001年4月11日、その9日前の2日にメジャーデビューしたばかりの彼が8回の守備で魅せた。1アウト1塁の場面で守っていたライトでヒットを捕球すると、3塁へノーバウンドでストライク送球し1塁走者のテレンス・ロングをアウトにした。この送球は全米の度肝を抜いた。彼の代名詞ともなった“レーザービーム”だ。『今のは何だったんだ・・・』唖然とする球場、そのざわつきなどなんのその、『当たり前なんですけど』と言わんばかりに平然としていた姿が忘れられない。この場面、映像で繰り返し見ているが、何度見てもかっこいい。惚れ惚れするとはこのことだ。チャンスがあったら『イチロー
レーザービーム』と検索してみてほしい。映像はすぐに見つかるはずだ。彼は、この年、新人王とリーグMVPを獲得した。本人にしてみればあいさつ代わりだったかもしれないが、その衝撃は計り知れないものだった。
マリナーズとの相性は抜群だったが、球団を去る時が来た。2012年、彼はヤンキースに移籍した。マリナーズ在籍11年目の2011年、初めて打率3割を割り(.272)、安打数も184本に終わった。普通ならば立派な成績だが、イチロー本人にとっては納得できるものではなかった。誰も到達したことのない頂きに挑戦し続けてきたのだ。一息入れたくなるのも当然だ。次に進むには新しい環境が必要だったのだと思う。だが、ヤンキースへの移籍は、彼にとっては決していいものとは言えなかった。ヤンキース時代の彼は、いつもむずかしい顔をしていた。2012年.283、2013年.262、2014年.284、の成績を残し、イチローはニューヨークを去った。
次の移籍先は、2014年の春まで決まらなかった。ぼくは、どこでもいいからレギュラーとして試合に出られるチームに移籍してほしかった。イチローはこんなもんじゃない、まだまだ打てると信じていたからだ。しかし、41歳のイチローをレギュラーで迎えようというチームは現れなかった。結局、控えの外野手としてマイアミ・マーリンズに入団した。よりによって、という選択だった。マーリンズの外野手には、チームの中心選手が揃っていたからだ。それも、3人ともクリーンナップ(3番、4番、5番)を打つ強打者だ。
3番レフト、クリスチャン・イエリッチ24歳(193センチ、88キロ)
4番ライト、ジャンカルロ・スタントン26歳(198センチ、109キロ)
5番センター、マーセル・オズナ25歳(186センチ、100キロ)
なんてことだ、これではイチローの出場機会が著しく少なくなってしまう。がっかりしたのはぼくだけではなかったはずだ。それでも、イチローは若きクリーンナップに勝負を挑んだ。移籍1年目の2015年のシーズンは、3人のうち誰かが常に故障していたこともあって153試合も出場することができた。3人には申し訳なかったが、イチローの出場機会が増えるのはうれしかった。しかし、1年を通しての成績は驚くべきものだった。打率.229・・・。イチローの成績とは思えない。疲れもあっただろう、肉体の変化もあっただろう。動体視力が衰えたという人もいた。そうだったのかもしれない。速い球(ストレート等)への対応に四苦八苦しているようにも見えた。だが、これで終わるはずがない。あの誇り高きイチローがこれで終わるはずはない。そんな思いで迎えた2016年のシーズン、イチローは輝きを取り戻した。
ぼくとイチローは、ひと回り違うが丑年で血液型も同じB型だ。180センチ、79キロ。身長と体重も数字的にはほとんど変わらない。ぼくはこんな些細なことでも喜んでしまうほどの大ファンなのだ。どうしてこれほどまでに彼に魅了されるのか。プレイのかっこよさや打撃の成績だけではない。“ひたむきな姿勢”や“ぶれない志”、がひしひしと伝わってくるからだ。インタビューにしてもそうだ。無駄なことは言わない。曖昧なことは言わない。少ない言葉で的確に表現する。立ち位置を理解している人の言動は見ていて清々しい。彼から学ぶところは多い。 (つづく)
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