3月21日、昔からのバンド仲間が何気ないラインのやりとりの最後に「34年経ったんだな。いつもは思い出さないんだけど。」と書かれたメッセージを送ってきた。34年?一瞬何のことかと焦ったが、すぐに思い当たった。34年前の3月21日、1983年のこの日は、ぼくたちのレコードデビューの日であり、プロのバンドとして、プロのミュージシャンとして初めてのステージに立った日でもあった。そんなことを口にするタイプではない仲間からの言葉に少々驚きはしたものの、34年という数字の重さに、しばし考え込んでしまった。34年前、ぼくは21歳だった。大学を中退し、無我夢中で飛び込んだ世界だった。その日から、20代、30代、40代の30年を過ごし、50代の半分まできた。思えば、必死の34年だった。そして、未だに道半ば、必死の毎日は続いている。

  偶然だったのか、その日の午後に会った千葉の友人との会話の中にも、ぼくのデビューの話が何度となく出てきた。最早、34年前の3月21日のことをエッセイにするしかなかった。ぼくがどのようにしてベースと出会い、バンド活動をするようになったのか、という話は、以前、九十九(つくも)ボーイというタイトルで書いた。いや、“書いた”ではない。話は続いているのだから、正確には“書いている”が正しい。第一部は、ロックとの出会い、高校に入ってバンドを始めた経緯、そして、高校時代に情熱を傾けたバンド『CHILD』の話が中心だった。2007年3月20日に第1話を発表し、24編続いた長編だ。最初は楽器との出会いを綴っていたのだが、いつのまにか、バンドのストーリーになってしまった。近い将来、ストーリーとしてきちっとまとめてみたいと思う。

  2012年1月、第二部として、高校卒業後の話を書き始めたものの、連載は2編でストップしてしまった。決して忘れたわけではないのだが、入学式とその次の日のことを書いたまま先に進めずにいた。19歳から23歳までの5年間はL♂♀VEと共にあった。生活のすべてがL♂♀VEのためだった。もちろん、楽しいことはたくさんあった。だが、それと同じぐらいつらいこともあった。“若かったとはいえ”、“若かったからこそ”、あの頃を思い出すとこんな言葉が交互に頭を巡る。そこには、まっすぐにバンドに向き合ったがゆえの葛藤がある。

  この場合の若さとは、年齢的、肉体的な若さのことで、生涯に渡って持つことのできる精神的な若さとは別のものだ。年齢で言うところの若さとは“誰にでも与えられるある時期特有の才能”のことだ。この言葉の中には、輝き、喜び、自由、開放、不安、苦悩、焦り、嫉妬、無謀、等々あらゆる感情が、あらゆる心の動きが、隠されている。漢字研究の第一人者である白川静先生の常用字解にはこうある。

  ≪若≫ 象形文字:巫女が長髪をなびかせ両手をあげて舞いながら神に祈り、お告げを求めている形。後に神への祈りの文である祝詞を入れる器の口(さい)を加え、祝詞を唱えて祈ることを示す。振りかざした両手の形が今の字形では草かんむりの形になっている。信託を求めて祈る巫女に神が乗り移って神意が伝えられ、うっとりした状態にあることを示すのが『若』である。伝えられた神意をそのまま伝達することを「若(かく)のごとし」といい神意に従うことから「したがう」の意味になる。巫女が若い女性だったので「わかい」の意味にも使われるようになった。

  なるほど、若さとは“祈り”のことだった。納得せざるを得ない。

  1980年、成蹊大学に入学し『ロック研究会(AMP)』というサークルの仲間たちと結成したバンド『L♂♀VE』のプロデビューライブは、1983年3月21日、日本青年館で行われた。収容人数は1,360人。初めてのホールコンサートで緊張したのか、リハーサルがなかなかうまくいかずに開演時間が遅れ、雨の中、お客さんを待たせてしまったことを覚えている。L♂♀VEは結成からデビュー半年前までの第1期と、デビューしてからの第2期に分かれる。活動時期は1980年の後半から1984年までだから実質4年ちょっとだ。4年の間にいろいろなことがあった。L♂♀VEの話は、今後、九十九ボーイ第二部でじっくりと書こうと思っている。

  1983年の手帳には1月からかなりのプロモーションが行われたことが記されている。ラジオ、テレビ、雑誌や新聞のインタビュー、イベントや学園祭も含めライブもたくさんやった。鹿鳴館、EGGMAN、リバプール、フォーバレー、藤沢BOW、LIVE-INN、クロコダイル、名前を並べるだけでもワクワクしてしまう。今思えば、ぼくたちが所属していた事務所は、かなりのことをしてくれたと思う。例えば、この年の7月5日にリリースされた2枚目のシングル『恋するWavy Boy』は、資生堂『Wavy Boy』のコマーシャルソングとして使われた。小さな事務所がこのような契約を獲得するのは至難の業だ。ぼくたちのプロモーションのためにどれほどの努力をしてくれたのかがよく分かる。この曲は、Wavy Boyという若い男性向けの商品のコマーシャルソングにすることを前提に作られた曲だったから、商品名がそのまま曲名になった。当時は、資生堂のコマーシャルに使われてヒットしない、なんてことは考えられなかった。しかしながら、残念なことに、本当に残念なことに結果を残すことはできなかった。しばらくしてから、このコマーシャルは資生堂としても実験的な試みだったということを聞いた。初めての男性用商品であったこと、そして、わずか2週間ほどしか放送されなかったこと。理由はともあれ悔しい思いだけが残った。

  S社長をはじめとして、事務所の人たちはみんな素敵だった。千駄ヶ谷にあった事務所の様子が今でも目に浮かぶ。昨年、高輪プリンスホテルで偶然S社長に会った。約30数年振りだったにもかかわらず、すぐに分かったのは、Bossの変わらない容姿のおかげだった。(当時、ぼくたちは社長の男気あふれる振る舞いからBossと呼んでいた)ぼくは思わず声をかけた。

「あ、あの、失礼します。Sさんでしょうか」
「はい、Sですが」
Bossのかっこよさは変わらない。
「L♂♀VEの依知川です。昔、お世話になりました」
Bossは、ぼくを見つめ、しばらく考えあぐねた末、ニコッと笑った。すぐに分からなかったのも無理はない。21歳のぼくと55歳のぼくが繋がるはずがない。社長は、真っ白になったぼくの髪を見つめ、オレより白いじゃねえか、と言ってまた笑った。

  1983年の後半から、バンドで石川ひとみさんのサポートも務めることになった。そこには、ロックバンドのメンバーであると同時に、個人のミュージシャンとしても育てたいという事務所とBossの意向があった。この頃の実力を考えると信じがたいが、ひとみさんのバンドで演奏していたのは事実だ。日々、特訓に特訓を重ねたが一朝一夕で、バックミュージシャンが務まるはずがない。ひとみさんには本当に迷惑をかけた。思い出す度に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それでも、この頃の音源があったならば聴いてみたい。

  最後に、デビューライブのメニューを紹介して今エッセイを締めくくろうと思う。ぼく自身が忘れてしまった曲もあるが、すべてオリジナル曲だ。あの日、日本青年館に来てくださった方々に感謝をこめて。

【L♂♀VE デビューライブ メニュー】
1983年3月21日 日本青年館

01.♂♀catch ♂♀touch
02.George TownにAngel Girl
03.Hip Lipに乾杯
~mc~
04.Cosmo Port
05.Too Late
~mc~
06.酔いどれマリーはあばずれ女
07.Hey Hey Girl
~mc~
08.恋人的星星
09.恋は天使のおくりもの
10.Show-nan Show-time
~mc~
11.パパママ許してRock’n’roll
~mc~
12.Crying
13.ハートぬらして
14.The Win
15.Evil and Love
16.Blue Rock’n’roll Blue

アンコール
17.♂♀catch ♂♀touch
18.Rock Night

(了) 

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