2017年4月20日、ぼくは56歳の誕生日を迎えた。どちらかというと、こんな日はひとりで静かに過ごしたいと思う方なので、ぼくにとっては理想的な一日となった。朝起きて花に水をやり、ご飯を食べると母に電話をかけた。「誕生日おめでとう!」いつものように母の元気な声が返って来た。父と母からは本当に多くのことを学んできた。とりわけ感謝しているのは“他人を思いやる気持ちを持つこと”と“ひたむきに進むことの大切さ”を教えてくれたことだ。高校を卒業するまでの18年間、淡々と送る毎日の中から伝わってきた両親の生き方や想いは、自然とぼくたち兄弟の心と体に馴染んだ。ついこの間、間もなく80歳になる母はさり気なく言った。「今まで、なにも悪いことはしてきてない」当たり前のようだが、そんなことを胸を張って言える母をすごいと思った。

  この日は、エッセイを書く日と決め、他に何も予定を入れていなかったので時間的余裕があった。ちょっと散歩でもしようかと思ったが、それよりも、と珈琲を持って家の前の公園に行くことにした。珈琲を淹れ、たっぷり注いだカップとアイフォンだけを持って外に出た。そのまま信号を渡って公園に行きベンチに腰を降ろした。今年の4月20日は穏やかないい一日だった。ぼくが生れたのもこんな日だったのかな。28歳だった父と24歳だった母はどのようにしてぼくを迎えてくれたのだろうか。喜んでくれたに違いない(笑)。そんな日から56年が経った。

  公園では、桜の喧噪から解き放たれて木々も落ち着きを取り戻しているように見えた。枝々は、時折やってくるそよ風にもたれて気持ちよさそうに揺れている。聞こえてくるのは、木々のざわめきと車が走る音だけだ。ここに到ってはエンジンノイズさえも心地いい。つかの間、珈琲を飲みながら静かに時間が過ぎるのを楽しんだ。こんな時間もいいものだなと思いつつアイフォンに手を伸ばしてみると、LineやFacebookのアイコンの上に普段見たことがないような数字が並んでいた。それは、ありがたいことに、たくさんの誕生日のお祝いメッセージだった。あの顔、この顔、たくさんの笑顔が思い浮かんだ。小学校、中学校、高校、大学の同級生。ミュージシャンの仲間たち、先輩方、後輩たち。全国の応援してくださる皆さま。千葉の音楽仲間、世界中で同じステージに立ったミュージシャンのみんな、地下室の会のメンバー、61年会の仲間たち。共にベースを勉強してきた仲間たち・・・。ぼくの人生は、こんなにもたくさんの素敵な人たちとの繋がりの上に成り立っているんだな、と思うと一瞬にして心が温かいもので満たされた。本当に幸せ者だな、とつくづく思った。このエッセイを書き終えたら、ひとりずつ顔を思い浮かべながら返事を書くとしよう。感謝の気持ちを込めて。

  16歳でベースを手にしてから40年が経った。冷静に考えると、40年弾いてきてこんなものなのかとがっかりもするが、ぼく自身が辿ってきた道だ、受け入れるしかない。一般社会では、56歳と聞くと、あと4年、60歳定年までのカウントダウンが始まる歳、と考える人が多いと聞くが、ぼくたちミュージシャンの場合は、まったく当てはまらない。演奏経験40年でキャリアを積んでいるとはいえ、56歳でもまだまだ中堅なのだ。音楽の世界だけではない。他の芸術全般についても、また、熟練の技を必要とするすべての職人さんたちにも同じことが言える。ぼくたちが生きる世界には、“これでいい”、“これがゴールだ”なんてことはない。生涯追い求めなければならないことがたくさんあるからだ。まだ56歳、道半ばだということだ。ひとつのことを突き詰める人生を歩めること、それ自体が宝のようなものだ。ぼくもそんな人生を歩んでいけたらなと思う。

  さて、人生の成功とはどういうことなのだろう。たくさんのお金を手にした人は成功者なのだろうか。社会的地位が高い人は成功者なのだろうか。有名=成功者なのだろうか。すべて違うということは明白だ。成功したか、失敗したか、なんてことは自分が決めることではない。それに、結果は最後の最後まで分からない。歳を重ねるということは、そういうことが少しずつ分かってくるということでもある。結果は(もちろん目に見える結果も欲しいものだが)それほど重要ではない。時には、一喜一憂することがあってもいいし、悔しがることも大事だ。それでも、目先の結果を求めずに、大局から物事を見られるような人になりたい。

  『人生は結果ではない、どう生きたかだ』多くの先人たちが残してきた言葉が沁みる。ゴッホやセザンヌは、生前、絵はほとんど売れなかった。ゴッホは精神に異常をきたし自殺した。セザンヌは周りの人たちに変人扱いされ、毛嫌いされ、いじめ抜かれた人生だった。そんな彼らの人生は“成功だったかどうか”という言葉では語れない。彼らの作品はその後の人たちに大きな感動を与え続けている。人類史的価値から言えば最上のものに属する。ゴッホは情熱をそのままキャンバスに塗り込めた。その情熱の凄まじさには言葉を失うほど圧倒される。逆に、セザンヌの絵から悲壮感は感じられない。彼が理想としたものへの追求があるのみだ。美しさへの追求だ。“すべては美しくなければならない”ハッとする言葉のひとつだ。人間は自然と美しいものを求めるようにできている。なるほど、後世に残っていくもので美しくないものなんてない。ゴッホの痛いほどの美しさ、セザンヌの洗練された美しさ。魂が震えるとはこのことだ。彼らの人生が成功だったのか、そうでなかったか、なんてことはまったく別の次元の話で、旅立つ時に『信じることを突き進むことができた、おれは満足だ』と思えたとしたならば、それは美しい人生だったと言えるのではないだろうか。

  美しさという言葉は抽象的で曖昧だから、イメージは人それぞれだ。だから、ぼくはぼくなりの美しさを求めて生きてみたい。56歳、本当の勝負はこれからだ。40年間培ってきたものを発揮するのはこれからだ。毎日毎日がこれからだ。イチロー選手が今シーズン1号のホームランを打ったといううれしいニュースが入ってきた。さすがイチロー、美しさの極致だ。 (了)

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