2017年4月7日午前8時半、ぼくは、甥っ子の入学式に出席するために、千葉県立匝瑳(そうさ)高等学校の体育館入り口にいた。ぼくには甥が3人、姪がふたりいるが、彼らの学校行事に参加するのは、最初の甥っ子の幼稚園の運動会以来だった。20年振りだろうか。小雨交じりでひんやりとした朝だったが、何ともいえない爽快感があった。入学式は門出を祝う日だ。八百万の神々も祝福してくれていたに違いない。傍らには弟がいた。甥っ子の父親である彼は当然のようにスーツにネクタイ姿だったが、ぼくは黒のTシャツとジーンズ、レザーのジャケットで勘弁してもらうことにした。入り口には多くの父兄が詰めかけていた。
弟が、アッと声を出したのでそちらに目をやると、そこには弟の同級生であり、ぼくにとっては光中学校野球部の後輩になるYがいた。ぼくは弟たちが1年生の時の3年生だから、彼らにとっては頭の上がらない存在だ。Yは、いや、Y先生は、ぼくを見つけると姿勢を正した。
「どうしたんですか?」
「甥っ子が今年からお世話になることになって・・・」
Y先生は、多古高校、東総工業の野球部監督を歴任し、昨年から匝瑳高校で教鞭をとっていた。そして、今年から匝瑳高校でも監督を任されることになったという。
「そういえば、Hさんもいるんですよ」
とY先生は、ぼくの同級生の名を口にした。Hは保育園、小学校、中学校の同級生で野球部の仲間でもあった。数年前から匝瑳高校に勤務していた。彼とは中学校を卒業してから会っていなかった。懐かしく思い体育館に入ってHを探していたら、「依知川さん!」と呼ぶ声がした。旭市飯岡中学校の先生をしていたT先生だった。T先生の娘さんも匝瑳高校に入学したのだった。飯岡中学校は海の側にあったため東日本大震災で津波に襲われた。家族を亡くした子供たちもいた。震災の数年前から、ぼくは、飯岡中学校で進路指導の一環として話をさせてもらったり、演奏を聴いてもらったりしていたので生徒たちと交流があった。T先生の顔を見ながら飯岡中学校の生徒たちのことを思い出していた。
小学校、中学校、高等学校を問わず、学校の体育館には独特な空気が流れている。雨の日の体育の授業が懐かしい。大勢でにぎやかに過ごしていても、どこか厳かな空気が流れていた。そして、ぼくは思い出していた。高校時代、この体育館でライブをしたことを。
高校2年生の時に結成したバンド『CHILD』は4人組で、成東高校生2名、匝瑳高校生2名だった。2年生と3年生の時に、それぞれの高校の文化祭で都合4回、学校でライブをしたのだがいつも大変だった。両校共に“他校の生徒は出演できない”という規則があったからだ。あの手この手を使ってやっとの思いでステージに立ったのを覚えている。結局は、先生たちも大目に見てくれたということだろう。特に、高校2年生の時の匝瑳高校でのライブは最高の出来だった。演奏は荒削りだったが勢いがあった。あの時の音はエネルギーの塊だった。この場所から、音楽人生のスタートを切ったと言っても過言ではない。この体育館、よくぞ昔のまま残っていたものだと感心し、感謝もした。
CHILDのライブを観ていた人の中にSさんがいた。Sさんはぼくたちと同じ歳で匝瑳高校の生徒だった。昨年知り合ったのだが、食事をしながら、「CHILDのパフォーマンスに衝撃を受けた」「あの時のことは今でもよく覚えている」と言ってくれた。ぼくのこともずっと覚えていてくれたそうだ。今まであのライブを見た、なんて言われたことはなかった。心の中に熱いものが込み上げてきた。そして、高校時代の自分たちが愛おしく思えた。
入学式が始まった。新入生たちが入場し、来賓の皆さんが壇上に着席した。各クラスの先生が生徒たちの名を呼んでゆく。生徒たちの返事が体育館にこだまする。最後に校長先生が『入学を許可します』と宣言した。厳しい受験を経て入学した生徒たち、我が子の将来を祈る父兄の皆さん、そして、先生方、来賓の皆さん、その場にいた誰もが前を向いている。なんて清々しいのだろう。何かが始まるというのはこういうことなんだ、と改めて納得した。甥っ子もみんなの中で顔を紅潮させていた。生涯の友人をたくさん作ってほしい、高校生らしい高校生活を楽しんでほしいと思った。そして、新入生の皆さんにとって、これからの3年間が充実したものであるよう願わずにはいられなかった。思い返すと、母はぼくの大学の入学式にも来てくれた。式後、母をひとり校庭に残し、ぼくは学校中を歩き回った。何時間も待たせてしまったことを今になって申し訳なく思った。最後に、吹奏楽部と合唱部の上級生が校歌を演奏し歌ってくれた。それは見事なハーモニーだった。そして、なんてむずかしい校歌だろうと思った。2声でハモる部分なんてテンションが効いていて、ちょっとやそっとじゃ覚えられない。何日か後、Sさんに、みんな歌えるんですか、と聞いてみた。「もちろん、歌えますよ」という声が返ってきた。当然かもしれない。母校の校歌なのだ。小学校の校歌、中学校の校歌、高校の校歌、どの曲も体に沁みついている。
校歌の指揮をしていた先生も成東高校の同級生だった。彼女とは、2年前の同窓会で会った。その時に匝瑳高校で音楽の教師をしていると聞いていた。式が終わると同級生の先生ふたりに挨拶をして外に出た。
匝瑳高校は、父の母校でもあった。甥っ子は父の後輩となった。喜びはひとしおだったろう。父の実家は匝瑳市山崎にある。谷の奥に開けた場所だ。この地区には今でも依知川家が本家分家合わせて数十軒ある。依知川家の祖先、西谷知綱小太郎は、近江の佐々木氏の一族だった。1550年~1570年頃近江での戦いに敗れ、この地(匝瑳)にやってきたと伝えられている。近江源氏だったこと、家紋が佐々木氏やその嫡流である六角氏と同じ“隅立四つ目結紋”であること、この頃、戦に敗れ逃れに逃れて現在の匝瑳市山崎まで逃げてきたこと、山崎に居を構え依知川を興したということ、等が分かっている。戦国時代の真っただ中、信長や秀吉が大活躍していた時期だ。この頃、近江で起こった合戦を調べてみると、1570年の『野洲河原の戦い』『姉川の戦い』『志賀の陣』、1573年の『小谷城の戦い』等がある。どの戦いかは分からないが、西谷知綱は、六角氏等と共に信長と戦ったのではないかと推測できる。戦いに敗れ、信長軍の執拗な追撃から逃れるために近江(滋賀県)から下総(千葉)の果てにまで逃れてきたのだ
滋賀県には、愛知川(えちがわ)という川があり、愛知郡(えちぐん)愛知川町(えちかわちょう)という場所があった。(※愛知川町は2006年、市町村合併で秦荘町と合併し現在は愛荘町となっている) 西谷知綱はここで生まれたのではないか、とも言われている。親戚に依知川家の歴史を調べている人がいるらしい。いつかゆっくりと話を聞いてみたい。話は逸れるが、神奈川県の厚木市に依知(えち)という場所がある。地名を知ってからずっと親近感があった。昨年、依知神社、依知小学校、依知中学校を訪ねてみた。依知川家とは直接関係ないことは分かったが、町を歩いていると町中いたるところに“依知”とある。なんとも不思議な感じがした。いつの日か、滋賀県の愛知川も訪れてみたい。
匝瑳で依知川家が興って450年、この地で粛々と歴史を重ねてきた。戦国の世を乗り越え、徳川の250年、明治大正昭和を経て今のぼくたちがいる。ぼくは生れてわずか56年だが、それでも、地の縁で結ばれている人は数えきれない。土地との結び付きは切っても切れないものだ。2017年、世界は狭くなった。これから、本気で世界を駆け巡ろうと思う。日本中をくまなく回ろうと思う。自分ができることを淡々とやるだけだ。そして、時には匝瑳に戻って地のエネルギーを浴びようと思う。 (了) |