《還暦について》
2021年4月20日、ぼくは60回目の誕生日を迎えた。60歳、還暦だ。節目の誕生日は10歳、20歳、30歳、40歳、50歳と5度迎えてきたが今までとは何かが違う。どちらかというと、誕生日は普段通りに静かにやり過ごしたい方なのだが、今回ばかりは気持ちが違う。
還暦だからなのだろうか。つい最近までは還暦だということを意識することはなかった。 だが、3月になって60歳の誕生日が近付いてくると、自分の中で少しずつ捉え方が変わってきた。還暦の意味を考えるようになったからだ。ぼくが生まれた年は干支(えと)でいうと辛丑
(かのと・うし)にあたる。現代では、干支は、子・丑・寅(ね・うし・とら)・・・と続く十二支(じゅうにし) だけだと思われがちだが、十二支は干支(えと)の支(と)の部分だけだ。より重要な干(え)を交えて本来の干支について考えてみる必要がある。
干支の干は幹の略で、支は枝の略だそうだ。幹があって枝がある。順番としては幹の方が主となる。安岡正篤の著書『干支の活学』の序文にこうある。「本来の干支は占いではなく、易の俗語でもない。それは、生命あるいはエネルギーの発生・成長・収蔵の循環
過程を分類・約説した経験哲学ともいうべきものである。即ち「干」の方は、もっぱら生命・エネルギーの内外対応の原理、つまり challenge に対する
response の原理を十種類に分類したものであり、「支」の方は、生命・細胞の分裂から次第に生体を組織・構成して成長し、やがて老衰してご破産になって、また元の細胞・核に還る。これを十二の範疇に分けたものである。干支は、この干と支を組み合わせてできる六十の範疇に従って、時局の意義ならびに、これに対処する自覚や覚悟というものを幾千年の歴史と体験に徴(ちょう)して帰納的に解明・啓示したものである」と。要約すると「生命の状態や変化の過程を60の範疇に分けた哲学」ということになる。数千年にわたる歴史の出来事を体系的にまとめた学問なのだ。ぼくたちは過去や経験からしか学べない。そう考えると、偶然にこの年に生まれた、では済まされなくなってくる。
『干支の活学』を読み進めていこう。十干(じっかん)は、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)と10種類あって、1番目の「甲(きのえ)」は草木の芽が春に遇って、その殻を破って頭を出す形のことだそうだ。そして、芽を出したはいいが外はまだ寒い、外界の抵抗のために真っ直ぐに伸びないで屈折している形が「乙(きのと)」だという。このように「干」は潜在エネルギーの発展段階における内外対応の状況を10種類に分類したものだ。
十二支は、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の12種類で、1番目の「子」の元の漢字は「増える」を意味する「孳」で、細胞が分裂・ 発達する能動性を表し、種子の中で植物が成長し始める様子をイメージしている。「丑」は、元は紐(「からむ」の意味)で、種子の中に生まれた芽が発芽しようとしている状態を表している。やがて春が来て草木が伸び始める姿を表しているのが寅だ。その後、草木は成長し、果実が熟した後、枯れて草木の生命力は再び種の中に閉じ込められる。つまり元の核に還るのだ。12番目の「亥」とは核のことだ。これら干(え)・10段階と支(と)・12段階を組み合わせて60の範疇に分けたものが干支だ。甲子園は「甲子(きのえね)」の年(1924)に作られ、戊辰戦争(ぼしんせんそう)は「戊辰(つちのえたつ)」の年(1868)に、壬申の乱(じんしんのらん)は「壬申(みずのえさる)」の年(672)に起こった。
干支は周代に始まり、戦国から漢代にかけて整った。戦国時代になると、陰陽説と五行説が結合した陰陽五行説とも深く関わってくる。五行の「五」は木・火・土・金・水の5つであり、「行」は行動のことだ。人生や自然の営む活発な作用、行動、力のことを五行という。ちなみに、日本ではこの
5つに「日」と「月」を合わせて一週間が表されている。陰陽説は、万物は陰と陽との二つの気で成り立っているとする考え方だ。これに基づいて、陽をあらわす「兄(え)」と、陰をあらわす弟(と)を五行の各々と組み合わせる。木の兄、木の弟、火の兄、火の弟・・・というように。そして、それぞれに十干を対応させると、甲は「木の兄(きのえ)」、乙は「木の弟(きのと)、丙は「火の兄(ひのえ)、丁は「火の弟(ひのと)」、戊は「土の兄(つちのえ)」、己は
「土の弟(つちのと)」、庚は「金の兄(かのえ)、辛は「金の弟(かのと)、壬は「水の兄(みずのえ)」、癸は「水の弟(みずのと)」となる。「えと」という言葉はこの「兄弟(えと)」に由来している。
十二支も奇数番の甲・丙・戊・庚・壬は兄(え)で、偶数番の乙・丁・己・辛・癸は弟(と)と割り振られた。丑年(うしどし)は、干支の2番目だから弟(と)にあたり、十干の弟(と)である乙(きのと)・丁(ひのと)・己(つちのと)・辛(かのと)・癸(みずのと)と結び付いて、乙丑(きのとうし)・丁丑(ひのとうし)・己丑(つちのとうし)・辛丑(かのとうし)・癸丑(みずのとうし)という5つの組み合わせができた。丑年にはこれら5つの種類がある。丑年は12年ごとに巡ってくる。ぼくは辛丑(かのとうし)の1961年に生まれた。今年2021年、60年振りに辛丑の年が巡ってきたということだ。これを「還暦」という。辛丑の「辛」は、草木が枯れ、生まれ変わろうとしている状態のことで「辛」という字は刺青をする針を表した象形文字だそうだ。針で刺すことから身体的な苦痛を表す言葉としてツライ、カライなどの意味を持ち、産みの苦しみを表している。一方で、磨き上げられた宝石や砂金という意味もある。「丑」は発芽直前の曲がった芽が種子の硬い殻を破ろうとしている状態で、命の息吹を表している。種の中に今にもはち切れそうなくらい生命エネルギーが充満している状況のことだ。総じて、辛丑の年は、出発の年、始まりの年だということが言える。
1961年(昭和36年)は戦争が終わってから16年しか経っていなかった。それでも、ぼくたちは戦争なんてなかったかのような少年時代を過ごすことができた。多くの大人たちが「戦争とは縁のない人生を歩んでほしい」という願いを抱きながら接してくれていたからだろう。 感謝しなければならない。先輩である団塊の世代の方々には、どうせ生きるなら好きなことを思い切りやろう、という気概があったように感じる。次の世代のぼくたち昭和30年代生まれはそんな団塊の世代の先輩たちの背中を追いかけた。同級生の多くは今年で退職するというが、ぼくたちミュージシャンは60歳になってもまだまだ中堅だ。70歳前後の先輩たちが現役バリバリの素晴らしいプレイを続けている。先輩たちはこの国の最初のミュージシャンだ。新しい世界を切り開いた功績は大きい。
《地下室の会》
「富倉安生さんと飲もう」ぼくと佐藤研二、スティング宮本の3人が三軒茶屋の飲み屋で 富倉安生さんと顔を合わせたのは、1998年11月のことだった。ベーシスト同士、顔や名前は知ってはいても仕事場で顔を合わすことはまずあり得ない。4人はベースについてとことん語りあった。アンプ、エフェクター、弦等、楽器の話はもとより、好きなベーシスト、果ては真空管の話まで持ち上がった。ある種の心地よいショックを受けた4人は、「また、やりたいね」「他のベーシストも誘ってみよう」ということになった。「せっかくだからベーシストの会みたいなものを作っちゃおうよ」2度目の飲み会を約束した。そして、その時までに会の名前を考えてこよう、ということになった。明けて1999年2月、4人の他に、鈴木正人、恵美直也、河野美紀、TAMAKI、が加わった。その場で名簿を作った。場所は、前回と同じ地下の店。地下を表す Basement とベースの Bass をかけて『地下室の会』 Bassment Party と命名された。第3回目の飲み会には、渡辺敦子、川添智久らが参加した。
3、4ヶ月に一度というペースで飲み会を重ねるうちに閃いた。「この会でライブをやったらどうだろう」それぞれがやっているバンドでもいいし、セッションバンドでもいい。
ベーシストが中心のライブだ。2000年3月、記念すべき第1回目のライブが行われた。以後、年に3、4回のペースでライブを続け、東日本大震災や熊本地震のチャリティーライブを含め、今までに74回のイベントを開催してきた。20周年を迎えた2018年には、東京だけではなく博多、広島、神戸でのライブも実現した。地下室の会には会費もなければ、会則もない。決まりがあるとすれば、プロのベーシストが、自分が認めたプロのベーシストを紹介する、ということだけだ。2021年4月20日現在、メンバーは248人。チャック・レイニーやビクター・ウッテン、スチュワート・ハム等もメンバーに名を連ねる。だが、大それたことを考えている訳ではない。「音楽界のために恩返しをしたい」「何かのきっかけを作れたら」との思いがあるだけだ。ぼくたちは、アーティストとして、また、職人として、
10年、20年、30年、40年、50年とベースを弾き続けて来た。そんなプロのプレイを目の前で見ることができるのがライブだ。音楽を愛する人たちのために、そして、これからのミュージシャンのために、ライブの価値を高めていきたい。昨年2月からは新型コロナウイルスの影響で音楽界も岐路に立たされている。人間のエネルギー源ともいえる音楽の、ライブの灯を消す訳にはいかない。1日でも早く音楽を愛するすべての人の祈りが届くことを願ってやまない。
《61年会》
2014年、当時53歳のプロミュージシャン21人が集まって「61年会」を結成した。全員が 1961年4月2日~1962年4月1日の生まれの同学年で、30年以上音楽業界の第一線で活動し続けてきた根っからのミュージシャンたちだ。アーティストとして、バンドマンとして、また、職人的ミュージシャンとして、音楽に人生を捧げてきた21人は、同じ年齢のミュージシャンの集まりに不思議な安堵感を得た。まるで中学や高校のクラスじゃないか。タメ口だけの世界は格別だった。同じ時に小学生になり、同じ時に成人式を迎えた21人は、多感な時期に同じような文化的洗礼を受けていた。共通のバックボーンがあった。ぼくたちの10代は1970~1980年、10年丸々が黄金の70年代だった。
仕事としてのライブではなく、また、個人の満足感を得るためのライブでもなく、同年代の人たちのためのライブをやろうということになった。そのライブには同学年の人たちがたくさん来てくれた。ステージと客席との間に不思議な一体感が生まれ、一風変わったステージとなった。ぼくたちの行動は小さなきっかけに過ぎなかったが、それでも、他の世代のミュージシャンたちを刺激した。ぼくたちより少し下の世代でも同じような会ができてきた。少しずつだが音楽業界への恩返しにも繋がっていると信じたい。
会が発足して間もない頃から「60歳になったら武道館でライブをしよう」が合言葉となった。半分が夢であり、願望でしかなかった武道館でのライブが現実のものとして考えられるようになったのは、「1961クラブ」との出会いからだ。1961クラブとは、渋澤健さんが主宰する政界・経済界をはじめ各界の1961年生まれの集まりだ。渋澤さんは、現在 放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の子孫で実業界の重鎮だ。渋澤さんのリーダーシップによって会は活気に溢れ、日本中から個性的な1961年生まれが集まっている。アメリカのオバマさんが大統領に就任した時、彼が1961年生まれだと知った渋澤さんが、周りにいた1961年生まれの友に声をかけたのが始まりだそうだ。 始まりからしてロマンに溢れている。立場や肩書はそれぞれ違っていても KISS や QUEEN の話になると誰もが一様に目を輝かせて高校時代を熱く語る。バンド経験者も大勢いた。1961クラブの皆さんとの出会いにより、武道館でのライブの話は、本当に実現するというところまで進んだ。2年半前に1961クラブのメンバーを中心に実行委員会が発足し、定期的にミーティングを開いた。一昨年の秋には協力してくれるイベンターも決まり、あとは日程を決めるだけというところまで漕ぎ着けた。本来だったら、今頃は今年の10月に実現するはずだった武道館ライブに向けて1961クラブと61年会が一丸となって進んでいるはずだった。それでも、実行委員会では、前夜祭、前々夜祭的なイベントはできないかと意見を出し合い最善の方法を探っている。
今年、ぼくたちは還暦を迎える。これまでと同じように日々音楽と向き合い、時にみんなでライブをする。その延長が武道館だ。今年できないのであれば、来年でも再来年でもいい。1961クラブの200名以上いるメンバーの多くは責任ある立場にいる。頼もしい事に、それぞれが力を尽くせば1万人の動員もむずかしくはないという。61年会だって2000人以上は動員できるだろう。その日に全国から1961年生まれが武道館に集い、共に還暦を祝う。
なんとも愉快ではないか。後輩たちや次の世代に「60歳になったらこんなことができるぞ」「60歳はこんなにおもしろいぞ」というメッセージを残せるかもしれない。武道館ライブ実行委員会の会合で「次世代のために」というスローガンが決まった。この素晴らしいイベントに参加できる喜びを噛みしめながら、武道館のステージで61年会の21人を中心に青春時代に出会った名曲の数々を未来に向けて奏でたい。
「61年会メンバー」 〔Vocal〕 尾上一平、Shime、藤原MAX正紀、藤原美穂、西涼子、mickie-phoenix、富樫明生、杉原徹 -TE’TSU- 〔Guitar〕 是永功一、HANK西山、西山毅 〔Keyboard〕 稲垣雅紀、鈴木憲彦 〔Bass〕 依知川伸一、TAK斉藤、根岸孝旨 〔Drums〕 ロジャー高橋、阿久井喜一郎、小口隆士、田中徹 〔Percussion〕 石川武
《これからのこと》
今日もいつものように、24年間続いているBARAKAの週1回のリハーサルをしてミーティングをする。淡々と1日を過ごし明日に向かうだけだ。今月から、ぼくの実家の近くにある楽器屋
「サウンドハウス」とのコラボでベース講座の動画配信を始めることになった。プロになって約40年、ベースを教えるようになって20年、いい時期に素晴らしい話をいただいたと感謝している。ベースについて、音楽について、ぼくなりに語ってみようと思う。今、ぼくは20歳の時と同じようにバンド中心の生活を送っている。40歳の時もそうだったが、60歳になってもバンド中心の生活ができることがどれほど大変で貴重なことか、バンドに携わったことがある方なら分かってくれるはずだ。本当に幸せなことだと思う。BARAKAについては多くは語らないでおく。BARAKAは現在進行形の真只中にいる。あと20年ほど思い切りやり切ったら、その時にはゆっくりと振り返ってみたい。バンドのメンバーにはこの場を借りて心からの感謝を伝えたい。
世阿弥は50歳を過ぎたならば後輩たちに譲って隠居するのがいいと言った。それでも、年老いた父・観阿弥の舞には凄みがあったとも語っている。60歳、この年齢をどう受け止めるか。これから次第だが、まだまだやらなければならないことはたくさんある。40年間培ってきた経験を活かすのはこれからだ。先輩方の背中を追いかけながら、自分なりのベース道を、バンド道を貫き通す所存だ。
60歳、これからも一本道を歩き続けるのか、還暦を機に2周目に突入するのか、今はまだ分からない。最後に、60年生きてきた中で一番うれしかったことを記して筆を置くとしよう。ぼくにとっての一番うれしかったこととは「小学校に入学したこと」だ。その先に何が待っているのか想像すらもできなかった6歳の春。入学式までの数週間、毎日ランドセルを背負ってその日を待ちわびた。あの時の喜びを超えるものはない。そこには世界への入り口があった。(了)
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