(一)光小学校校歌
 
 令和2年4月1日、東陽小学校と南条小学校が合併して、新たに横芝光町立光小学校が誕生した。不思議な縁(えにし)に導かれ、ぼくは光小学校の校歌を書かせていただくことになった。この町に生まれ、この町で育った者にとってこれほど名誉なことはない。音楽をやってきてよかった、と心の底から思えた。そして、時が経つにつれ、ぼくが校歌に関わることができたのは、ぼくの職業や経歴からだけではなく、父や祖父、先祖の代からのこの土地との関わりがあってのことだということが分かってきた。

 横芝光町は、町全体が千葉県立九十九里自然公園に含まれる自然豊かな町だ。九十九里平野の真ん中にあり、南には太平洋が広がっている。令和2年3月5日、たまたま会った同級生から東陽小学校が閉校するという話を聞いた。「えっ!」と絶句してしまったがどうすることもできない。人口減少の波が故郷にまで押し寄せているのかと自分を納得させるしかなかった。数日後にその同級生から連絡があった。「次はいつ帰って来れる?」それからは、まるでお膳立てができていたかのように話は進み、同年3月26日、押尾教育長と学校適正配置等検討委員会から正式に校歌制作を依頼された。

 “校歌らしい”校歌は、軍歌と同じ4分の2拍子だがそれでいいのか、それともポップス調のビートにしてみようか、それぞれ2曲作って委員会の方に判断していただこうか、起きている間はずっと考えを巡らせた。そして、まずは1曲作ってみようとギターを手に取った。ぼくたち音楽家の頭の中には、常に複数のメロディーの断片が流れている。もちろんオリジナルだ。その中のひとつのメロディーがふと頭をもたげた。子供たちへのメッセージとなる歌詞もスラスラと出てきた。ぼくが普段から思っている故郷への想いをそのまま言葉にすればよかった。

 光小学校校歌 ~光の中へ~

 志は今 あなたに宿る
 誇りと共に 光の中へ

 栗山川を道しるべにして
 世界の友を迎えよう
 輝く稲穂 満天の星
 太平洋の風が通り過ぎる

 父母の祈りを胸に
 笑顔で進もう
 熊野の宮に抱かれた
 この街の夕焼けが
 どれほど美しいか
 伝えて欲しい

 志は今 わたしに宿る
 誇りと共に 光の中へ

 志は今 あなたに宿る
 誇りと共に 光の中へ

 光の中へ

 キーワードは『志(こころざし)』だ。志って何?と聞かれると返答に窮してしまうほどむずかしく深い意味を持つ言葉だ。ただの『夢』や『願い』『目標』ではない。辞書を引いてみると『心に決めて目指していること』『何になろう、何をしようと心に決めること』とあるが、まだまだ言い尽くせてはいない。志という言葉には、どう生きるか、どのようにして生きるか、という人生の指針や道のあり方を問われるかのような深く重いテーマが内包されている。

 令和3年の12月、光小学校で校歌の指導をさせていただく機会を得た。各学年ごとに1時間ずつ、メロディーと歌詞の意味を丁寧に説明することができた。分からないこともたくさんあっただろう。それでも、子供たちはみんな真剣に聞いてくれた。マスクとフェイスシールド越しに一生懸命に歌ってくれた。

 「栗山川を道しるべにして」という歌詞は、成田空港を目指すパイロットが栗山川を目印にしているという話を聞いたことに着想を得た。栗山川は本当の意味での日本の玄関ではないか。子供たちには世界に目を向けてもらいたい。この町は世界の友だちを迎える最初の場所なんだよということを伝えたかった。この文言の背景にはもうひとつのエピソードがある。ぼくがまだ中学生の頃だったろうか。成田空港の騒音問題が町中で語られていた時、同窓会から帰ってきた母が言った。「みんながみんな騒音に対して反発の言葉を口にしていた時にね、輝男さんが“ああに、旅人の足音だねえが”って言ったのよ。みんな一瞬にして黙っちゃった。」その言葉を聞いた時の衝撃は忘れられない。そんな考え方があるのか、なんて勇気のある人だ、ぼくも大人になったら輝男さんのようになりたい、一瞬にして憧れの人となった。越川輝男さんは古屋地区で農業をしながら、後に光町の町会議員として活躍した。

 美しい稲穂の光景や夜空の美しさは皆さんご存知の通りだ。町の上空には常に太平洋から運ばれた澄んだ空気が流れている。ぼくたちは知らないうちに新鮮な空気を身体中に行き渡らせているのだ。『笑顔』という言葉も使いたかった。「お父さんやお母さんは偉くなってほしいとかお金持ちになってほしいとか思っているんじゃないんだよ。どこで何をしていても笑顔でいてほしいって願っているんだよ」ということを伝えたかった。笑顔は最強だ。当たり前だと思われるかもしれないが、その当たり前をしっかりと言葉にしたかった。『夕日』も同様だ。世界には夕日が美しくない場所なんてない。それでも、ぼくたちにとっては、この町で見る夕日ほど尊くありがたいものはない。生まれてから18年をこの町で過ごしたが、夕日の美しさに気付くことはなかった。当たり前の景色だと思っていたからだ。歳を重ねた今、故郷に帰ってくるたびに栗山川の岸辺に立ち、眺める夕日の美しさに感動している。

 熊野神社の創建は876年、平安時代だ。940年には平将門の乱を鎮定した功で社殿建築神領18貫目を寄進され、その時に熊野新宮大権現と改めた。当時、この辺りは紀伊熊野山領で上総氏系の匝瑳氏の所領だった。熊野神社は近郷18ヶ村の惣鎮守として地域の人たちの心の拠り所となった。この地は、その後千葉氏、千葉氏の一門である椎名氏へと受け継がれた。江戸時代になるとこの辺り一帯は天領となり、部落ごとに徳川家の旗本や寺社に属した。現在の熊野神社の宮司さんは昨年、県内にも数人しかいない浄階(香取神宮や鹿島神宮の宮司さんと同じ最高の階位)を授かった。小さいながらも輝かしい神社を町の宝として大切にして行きたい。

 校歌ができてからも志について考え続けた。子供たちに何と説明しようかと考え続けた。そして、志とは『お天道さまとの約束』ではないかという考えに及んだ。 お天道さまに対し『清廉潔白に生きます』『誠実に生きます』と約束することではないだろうか。

 昨年11月、光栄なことに町長室で善行表彰を受けた。その部屋には、ぼくのほかに4名いた。佐藤町長と押尾教育長は高校の先輩だ。総務課長の川島敏彦さんは中央保育園、東陽小学校、光中学校の同級生であり、教育課長の椎名淳さんは、ひとつ年下で、やはり中央保育園、東陽小学校、光中学校の後輩だ。小学校、中学校時代には野球で共に汗を流した。部屋にいた全員が知り合いだなんて、こんなに幸せなことはない。人口2万人ちょっとの町だからこその奇跡なのか。

(二)光町から横芝光町へ
 
 父、依知川英雄は匝瑳市入山崎で生まれた。入山崎には依知川家の集落がある。依知川家は、戦国時代に近江(滋賀県)から匝瑳に移り住んだ一族だ。父が教師として初めて赴任したのが東陽小学校だった。東陽小学校で数年勤務し、次に白浜小学校で10年近く教鞭をとったので、今でも「依知川先生に教えてもらった」「先生の教え子だよ」と言ってくださる方が大勢いる。その後、教頭、校長となり約40年の教師生活を終えた後も86歳で亡くなる直前まで成東警察の少年警察ボランティア会員として子供たちのために尽くした。東陽小学校の前身は明治8年(1875年)創立の宮川学校だ。母方の祖父椎名浩(明治41年生まれ)も宮川学校で学んだ。祖父は光町役場で総務課長を務め、後に町会議員となった。

 昭和29年、東陽村、白浜村、南条村、日吉村の4村が合併して新しい町が誕生することになった。この時の町長職務執行者(町長代理)は旧東陽村村長の越川伸(のぼる)さんだ。越川伸さんは、祖父・椎名浩の同級生で明治41年生まれ、当時46歳だった。新しい町の名をどうするか、それぞれの村が話し合い4つの候補があがった。『東光町』『日東町』『清和町』『総和町』だ。その中から“総和町“が選ばれた。だが、何人かの委員から反対意見があがり再考することとなった。どの町名もどこかにありそうで、これらのうちのどれかが選ばれていたとしてもおかしくはない。だが、この時、この地の人たちの中に未来を見ている人がいた。選ばれたのは『光』だった。『将来の栄光と一致団結、並びに発展を表す“光“に決定する』この時代に町名を“光“とした越川伸さんを中心とした合併促進委員会の方々には心からの敬意を表したい。この名がその後、有形無形にどれだけの効果をもたらしたか計り知れない。ぼくは子供の頃、朧げにこの町が特別な場所だと考えるようになった。光という言葉に反応したからだ。小学生の頃、夢中になったウルトラマンの主題歌に「光の国からぼくらのために、来たぞ我らのウルトラマン」という歌詞があった。ウルトラマンは光の国から来たのか、ぼくだって光の町に生まれたんだと精一杯の正義感に包まれたのを覚えている。今考えると微笑ましいが本気でそう思っていた。

 当時の委員たちのセンスというか見識はどこから来ていたのか。思い当たる節がある。この地の人々は古くから学問を好み、多くの人が人生の理想とされる晴耕雨読を実践してきた。江戸時代の後半、横芝町北清水に『海保漁村』という儒者が現れた。江戸で儒学者『太田綿城』に学び、後に師のすすめで私塾を開いた。塾生には明治新政府の要人となる渋沢栄一や鳩山和夫らがいた。また、初の実測日本地図を完成させた『伊能忠敬』も大総の小堤で育っている。彼の父は小堤村で生まれ山武郡九十九里町小関村に婿入りした。忠敬は10歳の頃からの数年を小堤で過ごした。

 大正2年、宮川にも『越川春樹』という偉大な人が生まれた。長く白浜小学校で教鞭を取り、船橋市立二宮中学校長時代には二宮中学の名と共に当時天下に名を知られた人だ。歴代の総理大臣の知恵袋であった大儒・安岡正篤を師と仰ぎ、教員をしながら儒教を学び、幕末に今の旭で活動していた農民指導者『大原幽学』を研究した。晩年には光町で『懐徳塾』を開き老若男女問わずに論語と言志四録を講じ『人間学言志録』『一隅を照らす』を著した。人間学言志録には西郷南洲手抄言志録も付されている。当時、講義を受けた人たちのDNAは子孫や友人たちを通じて現在のこの町の人々の中にも脈々と流れ続けている。目には見えなくとも、偉人たちの名が忘れられようとも変わることはない。祖父・椎名浩も夜な夜な儒教を学び仏典を読んでいた。越川輝男さんも本を手放さなかったという。そして、この随想誌『地下水』はその結晶だ。自治体が随筆集を発行するなんてそうあることではない。そのこと自体が民度の高さを物語っている。光町で昭和51年2月に発刊され横芝光町となった今でも町の人たちのエッセイや和歌、俳句を掲載し続けている。40年前、20歳の時に将来の目標を掲載していただいた。今となっては読むことはできないが基本はまったく変わっていない。21歳でプロのミュージシャンとなり40年続けることができた。それでも、目指す山頂は高くやっと2合目に着いた辺りだろうか。日々、到底辿り着けないであろう頂に向かって歩んでいる。

 「誇りと共に光の中へ」には、この町に生まれたことに誇りを持ち、輝かしい未来に向かって大きく踏み出してほしいとの願いを込めた。「あなたに宿る」を先に書いたのにも意味がある。「わたしに宿る」は自分一人のことだが、「あなたに宿る」とみんなが歌えば、自分以外のすべての人が自分のために歌ってくれているということになる。『友のために、故郷のために、社会のために』先人たちが伝えてくれた大切な教えだ。

 横芝光町
 私たちの故郷・横芝光町
 かけがえのない郷里・横芝光町

 未来へ
 輝かしい未来へ
 光の中へ 

 (随想誌『地下水』令和4年3月号掲載)
  Copyright(C)2022 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top