人間は生まれながらにして “善” の心を持っているのか、“悪” の心を持っているのか…。性善説、性悪説という言葉があるが、極端にどちらかの感情だけを持って生まれて来る人なんているはずもないから、どちらの要素をより多く持って生まれて来るかということが問題になるのだろう。荀子の性悪説は “人は環境や欲望によって悪に走りやすい傾向にある” ことを指摘しているのであって、いかなる悪も礼や教育次第で善に矯正できると説いている。人の本性は悪だと言っている訳ではないのだ。人は瞬時にして神にも仏にもなりうるし、悪魔にも鬼にもなりうる。 『人の本性は善か悪か…』 なんて普通なら考えなくてもいいようなことを考えなくてはならない、いや考えざるを得ない哀しい出来事が多すぎる。しかし、ただ悲嘆しているだけではいけない。正面から受け止めて少しでも前に進まなければならない。

  “悪” という言葉だけでは片付けられないような事件が日々起きている。親が子を、子が親を簡単に殺してしまう。思いを遂げられない片思いが相手を殺してしまう。今や耳を疑い、目を覆うような話がニュースキャスターの口から平然と語られるのが珍しくはなくなってしまった。殺人者と呼ばれることになったあの人たちは我々とどこがどう違うのだろうか。いびつな心、歪んだ心はいったいどこから来るのだろうか。 “殺す” なんて言葉を連発するのは書いていて気分のいいものではない。書くのも話すのも普通なら避けたくなる言葉だ。読む側は尚更だろう。でも今回はちょっとだけ目をつぶって、そしてつぶってもらって “殺す” ということを考えてみたいと思う。

  そもそも動物は生きるために他の動物を殺している。殺さなければ生きていけないからだ。「そう、だから殺さなくて済むように植物だけを食べている」 という人もいるだろうが、東洋的な考えだと植物もれっきとした “生き物” だから主張は根本的に違ってくる。生きるということは多大な犠牲の上に成り立っているということなのだ。こんなことを考えながら生きるなんて気が滅入ってしまうから、普段、人はそんな罪の意識を自ら麻痺させて毎日を過ごしているのではないだろうか。『猿の惑星』 という映画の中で 「猿は猿を殺さず、猿は猿を殺さず」 と猿たちが声を揃えてシュプレヒコールを挙げている場面があった。猿が猿を殺すという行為がまったくなかったらこんなことを言う必要はない。猿の世界でも (人間が想像した世界だが) 殺すということが日常的にありうることで、当たり前の中に潜んでいるからこそ皆でそれを抑制しあい罰し合わなくてはいけなかったのだ。

  生きることは命懸けだった。言葉もなかった昔、食べ物の取り合いは殺し合いにまで発展した。食べなければ生きていけなかったからだ。雌の取り合いでもしばしば殺人は起こった。自分の血を残してゆくことが生きる目的だったからだ。殺さなければ殺される、という状況の中で人は生き抜いてきた。このような話は今では遠い昔…だと言える現在だったらよかったがとんでもない。今でも主義、主張のために人は人を簡単に殺している。考え方が違うというだけで人が人を殺している。そして、謂れなき殺人が、怠慢による殺人が、いじめによる殺人が、飲酒運転による殺人が、数千円のための殺人が、未熟な医師による殺人が、行われている。

  自分の中に人を殺すかもしれないという要素があるわけはないと思い込んでいる人が多すぎる。教育にしてもそうだ。ただやみくもに殺してはいけないと言うだけでは本質的な意味は伝わらない。難しいことだと思うが、人は “殺すかもしれない” 動物だということを自覚した上で殺すことの愚かさを学ばなければいけないのだ。生きるために他の動植物を殺さなければならないと書いた。これはどうしようもないことだと思わないといけないが、同じ種同士での殺し合いはやはりタブーなのではないだろうか。天罰がくだることは歴史が証明している。BSEの問題にしても牛に牛骨粉を与えたことが原因ではないかと言われている。

  東洋には “惻隠 (そくいん) の情” という言葉がある。今、そしてこれからの世界に最も必要な “感情” “想い” ではないだろうか。他人をいたわしく思う気持ちのことだ。思いやりと言い換えてもいい。相手の意を推し量り、見えないところでそっと手を差し延べるようなそんな優しい想いのことだ。僕たちが生きている間にこの感情を世界に溢れさせたい。安倍首相が中国と韓国に出向いた。東アジアから世界に東洋の美しさ、優しさを伝えてほしい。
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