朝5時半、ノリオは突然目が覚めた。ふと見ると初秋の朝が窓の外で香っている。カーテン越しにでも陽射しの美しさが手に取るように分かった。目覚めのよさも手伝ってかスッキリと起きだした。とりあえずは新聞を、とドアを開けるが外の空気は思いのほか冷たい。新聞入れに手を伸ばしたが、朝刊はまだ届いてはいなかった。空を見上げ、まぶしさに目を細めながらドアを閉めた。そのままリビングに戻り冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボトルに入れてあった水道水をグイっと煽った。浄水器を使っているから味は悪くない、と常日頃から思うことにしているが効果の程は分からない。今日は土曜日、ノリオにとっては久しぶりの休みだ。今週はとにかく忙しかった。仕事以外のことをした覚えがない。帰宅は深夜、帰ってからも目を通さなければならない資料に囲まれて眠った。昨日の金曜日午前中にその仕事が落着したのだった。ノリオと仲間たちは早い時間から行きつけのおでん屋で達成感を味わい、ノリオは珍しく、さほど強くないアルコールを口にした。溜まっていた疲れのせいもあってか帰るとすぐに寝てしまった。

  「腹減ったなあ」 ノリオは起きた時から空腹を覚えていた。「朝飯こそが一番美味しい」 というのがノリオの信条である。とは言っても何かの雑誌で 『黒澤明は健啖家で朝からステーキを食べていた』 という記事を読んでからとりわけこう思うようになったのだが…どんなに些細なことであっても尊敬する人の影響というのは大きいものだ。ノリオは黒澤明と同じで朝からどんなものでも食べられた。内臓が丈夫な質 (たち) なのだ。朝の5時45分、この時間に食べられるものは限られているが少なくはない。ノリオの頭をいくつかのパターンが駆け巡った。まずは家を出ずに済ませる方法が考えられた。冷凍のご飯がある。買い置きのレトルトのカレーがある。缶詰ではマグロフレークと秋刀魚の蒲焼が、その他、お土産にもらった韓国海苔、30年来の好物 “丸味屋ののりたま”、納豆と豆腐、実家の母が漬けた梅干もある。が、違う。イメージがわかない。次に考えられるのはコンビニだ。幸い歩いて5分以内のところにメジャーなコンビニが2店ある。鮭のおにぎりかサンドイッチか、あるいは肉まんを買ってきてはどうか…。これも違う。近くの駅まで行けばこれもメジャーな牛丼屋が2軒あり、そのうちの1軒はメニューも豊富だ。朝定食でもいい。朝定食といえば最近力を入れだしたファミレスという手もある。「うーん、これも違う」 どれをとってもこの素晴らしい朝に相応しくはない。考えているうちに何だかこの朝ご飯が特別なものに思えてきた。もはや手を抜くことは許されなかった。ノリオの感覚は次第に研ぎ澄まされてきた。そして、ついに脳は30数年の経験と今現在置かれている環境、経済的状況、その他あらゆる要因からこれはという結論を導き出した。ノリオは突然ひらめいた。この日の空の青さに恥じない朝食を思いついた。 「あそこだ!」 その瞬間、ノリオの頭には数時間先までの自分の姿、行動が描かれていた。そうと決まったら行動に移すのみだ。ただし、落ち着いていかねばならない。

  ジーパンを穿き、最近お気に入りのTシャツを来てジャージの上着を羽織った。ノリオの瞳は陽射しに弱い。薄い色のサングラスをかけた。ジーパンのポケットにはこの週末に読もうと楽しみにしていた文庫本を入れた。ノリオは文庫本のカバーを外して持ち運ぶ。本は紙の、そしてその原料である木の感触を楽しむものでもあるのだ。カバーの下の表紙にはたいていの出版社がベージュか肌色、生成りの色を使っている。出版社ができた頃の古いデザインをそのまま使っているものが多い。こうやって持ち歩くと気を使わずに済む。たとえ少し汚れたり、傷んだとしても、カバーは新しいままだから本棚は美しく飾れる。カバーの上に更に本屋のカバーを付けるのは嫌だった。1枚でも気になるカバーが2枚になると煩わしいし何より紙が無駄になる。本屋では 「カバーは要りません」 と言うことにしている。その文庫本はノリオが5年間待ち続けたものだった。書下ろしがハードカバーの単行本で出ているのは知っていたが文庫になるのをじっと待っていたのだ。値段ではない。文庫にはどこにでも気兼ねなく持ち運べて、好きな時に楽しめるという素晴らしい利点がある。この 『どこでも好きな時に楽しめる』 という至福を味わうためなら5年は長くはない。それに、待つ間に読む本は他にも数え切れないほどある。更にこの本は続きものでこれから約1年半の間、毎月決まった日に出版されることになっている。楽しみがしばらく続くのだ。これもまたたまらない。文庫本は右後ろのポケットに、左後ろには財布を入れ、携帯電話は持ちたくはなかったが現代人の常としてやはり気になってしまうのか左前のポケットに入れた。最後に履き慣れたスニーカーを引っ掛け外に出た。ふと見ると新聞入れから朝刊が顔を出している。ノリオは新聞を中に投げ入れ、しっかりとスニーカーを履いてから鍵を閉めた。午前5時58分、目指す店までは普通に歩くと12、3分。散歩ペースだと20分ほどかかる。「せっかくの朝だ、ゆっくりと歩こうか」 ノリオは第一歩を踏み出した。 (つづく)

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