ノリオの休日は、思い描いたシナリオ通りに動き始めていた。快調な滑り出しである。 「今日一日、この流れで行けたらいいな」 足取りは無意識のうちに軽くなる。 『三休』 の並びのコンビニに入り、迷わず温かい飲み物のあるコーナーへと向かった。缶コーヒーにしてもペットボトルの緑茶、ウーロン茶、そしてミネラルウォーターにしてもノリオは選ぶ銘柄を決めている。これも、もちろん値段ではない。 「缶コーヒーには缶コーヒーの美学がある」 とノリオは思っている。 「似たようなものなら何でもいい」 とこだわらない人もいるようだが、ノリオにとっては大きな問題だ。同じコーヒーでも口に合ったものを飲みたいのだ。目当てのコーヒーが買えるか買えないかで、踏み出す次の一歩の角度が違ってくる。もちろんフォローアップのためにそれぞれ第2、第3の候補があるということも付け加えておかなければならない。歩きながら遠目に見て 「ん?ないのか!?」 と一瞬目を疑ったが何のことはない。保温ケースの奧にひとつだけ隠れていた。 「今日に限って、ない訳がないか」 フフッと笑みを洩らしながらいつもの缶コーヒーを手に取り、熱さを我慢しながらレジへと向かった。

  スニーカーのリズムは軽快だ。ザッ、ザッと足音が心地いい。 「次はあの場所だ」 ノリオは本日の第2幕の舞台へと歩みを進めた。50メートルほど行くと川にぶつかる。茂川だ。道は橋を渡ってそのまま真っ直ぐ続いている。橋の長さは15、6メートルなのだが川幅は1メートルぐらいしかない。水辺には川特有の植物が生い茂り、鳥や昆虫にとっては数少ない安息の場となっている。夏の夜には牛蛙の声が響き渡る。両岸には整備された遊歩道が悠々と横たわり、昼夜を問わず多くの人が利用している。以前、深夜のウォーキングをしていた時に通ったコースだ。遊歩道の川に面する側には危険防止のための手すりがしっかりと固定され、そこから水面までの約3メートルはコンクリートががっちりと土手を守っている。そして、ふたつの遊歩道の脇には延々と桜の木が植えられている。たっぷりと水を蓄えられるせいかその幹は太く高い。春のあざやかさは言うまでもない。遊歩道の外側には小さい公園のようなスペースが点在している。東屋のような建物があり、木製のテーブル、ベンチが並べられている。ベンチは遊歩道の内外を問わず至る所に配置されているのだが、景色に溶けていて違和感はない。ノリオはお気に入りのベンチに座り、食後のコーヒーを楽しみながら飽きるまで本を読むつもりだった。 「今日はそれで十分だ」 その後のことはまったく考えてもいなかったと言っていい。そして、今日という日が、これ以上ない秋の好日として彩られるはずだった。

  茂川に突き当たり、胸を弾ませて手前の遊歩道を右折したノリオはハッと息を呑んだ。ノリオが座るはずだったベンチに先客がいる。紅い毛糸の帽子をかぶり真っ白な髭をたくわえた老人が、ベストポジションである右から4、50センチのところで腕を組みドッカリと腰を下ろしているではないか。しかも空気に溶け込み風景と一体化している。 「ううむ…、見事だ」 その姿に 「手も足も出ない」 と、ノリオは手にかけていた文庫本をポケットに押し戻し、散歩の風を装いながら第2、第3の候補地を探った。 「ダ、ダメだ!」 散歩の達人たちがここぞという場所、ここぞという一角に陣取っている。ノリオが目を付けていた席に先回りをしていたかのように…。ノリオにはその達人たちが皆、柳生石舟斎に見えた。

  「座りやすい場所がある」 とノリオは思う。誰かが歩いていたとする。その人がたくさんあるベンチの中からひとつのベンチを偶然選び、何も考えずにふと座ったとする。その場所をAとしよう。同じようにどのベンチに何人が座ったのかを統計を取って調べてみると、きっと、その場所A、B、C…の人数分布は均等ではなく、かなりの確率で何ヶ所かに集中するはずだ。たくさんの人が同じ場所を選ぶだろう。そう、その場所は “座りやすい” 場所なのだ。 “なんとなく” 座ったつもりでも、実際には無意識以下の意識が、時間帯、陽のあたり具合、風の通る道、そこからの景色、そして (防御本能の働きによるものだろう) 前後左右、他人が身を潜められる場所からの距離…それらの諸条件を鑑みて瞬時に判断し、ここぞという場所を選ぶのではないだろうか。ノリオはそう思っていた。だが、ノリオは更に考えた。人が当たり前に座る場所ではない、自分だけの場所を探したい。見つけてみたい。簡単には見つけられない俺だけの場所があるはずだ。それから約8年をかけて、ノリオはその場所を手繰り寄せた。遊歩道を知り尽くしたノリオが、吟味に吟味を重ね、選りすぐった場所が今日の3ヶ所だったのである。 「素人に分かるはずはない」 と自信満々で臨んだノリオだったが、ものの見事に看破されていた。自分の場所だと思っていた “魂” の場所に寸分の狂いもなく居られてはたまらない。どんな “道” であっても上には上がいるのだ。ノリオは肩を落としてはいたが、不思議と敗北感は感じなかった。 「 “道” の深さを思い知らされた。まだまだ修行がたりないな、出直しだ」 という少し前向きな気持ちで立ち去ろうと振り返った。

  その時だった。最初の候補地にいた白髭の老人がノリオの視線を待って、スッと席を立った。老人はノリオの動静を見ていたのだ。小さな動揺をも見逃してはいなかった。 「お主にこの場所が分かるのか」 「ならば譲って進ぜよう」 と言ったか言わぬか、ゆっくりだがしっかりとした足取りで去っていった。ノリオは礼を言う間もなかったが、後姿に向かい 「ありがとうございます。遠慮なく使わせていただきます」 と心の中で頭を下げた。まだ温かい缶コーヒーを置き、後ろのポケットから本を取り出して、右から4、50センチの所に座った。ベンチはまだ温かい。ふと見るとベンチの右端に1本の枝が残されていた。

  ノリオにとっては長く感じられた時間であったが 『三休』 を出てからまだ10分と経ってはいない。時計は6時48分を指していた。 (つづく)

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