平成19年を迎えた。 “謹賀新年” “迎春” “賀正” なにはともあれ、めでたい。よき年、輝かしい年であることを願いたい。この 『平成』 というのは元号 (年号) のことで、 “年” につけた名前のことだ。中国で皇帝が時をも支配するという思想から、漢の武帝の時 (西暦紀元前140年) に 『建元』 と号したのが始まりだ。その後、近隣諸国でも使われるようになったが、現在でもこれを使用している国は日本だけだ。日本で正式に制定されたのは645年、 『大化』 と号したのが最初。明治以後は大正、昭和と天皇の代ごとに改元する一世一元になったが、明治の前の 『慶応』 以前は祥瑞・災異その他の理由で改められることも多かった。

  他の元号の19年はどんな年であったか。昭和19年 (1944年) は太平洋戦争の末期で、今映画や書籍で話題の硫黄島の悲劇 (昭和20年) を迎える前の年だ。昭和20年には戦艦大和が撃沈され、2発の原爆 (リトルボーイとファットマン、ふざけた名前だ) が投下され、8月15日に終戦を迎えた。この時期を生きた人たちの心情は計り知れない。大正は15年まで。更に遡って明治19年 (1886年) は初代総理大臣・伊藤博文の就任2年目の年で、近代国家として落ち着き始めたころだ。今回はそのころの出来事、明治天皇 (在位1867〜1912) と明治天皇の父・孝明天皇 (在位1846〜1866) の時代の話を中心に書き進めたい。昨年の正月は 『八犬伝』 を見てその感想を書いた。今年は 『白虎隊』 を見た。戦国時代と並ぶ激動の時代 “幕末” 、そこから何が見えてくるのか。何を考えるか。

  黒船が日本にやって来たのは1853年、今から約150年前のことだ。徳川幕府の鎖国政策で、外の世界とは隔絶されていた当時の人々の驚きはどれほどだっただろうか。現代人の想像を遙かに超えていただろうことは容易に推測できる。徳川幕府はキリスト教の禁止を名目として、朝鮮・琉球との外交関係および中国・オランダとの貿易を除き、外国人の渡来や外国との貿易、日本人の海外渡航を禁止した。 (※オランダはカトリックではなかったために許された) 黒船が現れた時、鎖国制度が整った嘉永17年 (1639年) から200年以上もの年月が経っていた。世界史的に見た場合、唯一の貿易港だった長崎だけがこの国の空気穴の役目を果たしていたことになる。ペリーが艦隊を率いて日本に来る10年前には隣の大国 “清国” が阿片戦争でイギリスに敗れ半植民地と化していた。黒船の登場で対岸の火事どころではなくなった。 「清国と同じ轍 (てつ) を踏んでたまるか」 「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」 「神国に一歩たりとも入れてはいけない」 当時のリーダーたちは本当に困ったことだろう。西洋を知るにも、その兵力や財力を知るにも情報が少なすぎた。ただ国中の人々が、見たこともない大きな黒船に圧倒され、腰を抜かさんばかりの状況に陥ったことだけは間違いない。

  綺羅星のごとく人物が現れた時代だ。幕末から明治の初期にかけて突出して時代を彩った人物、志士たちを挙げてみよう。幕府側では15代将軍徳川慶喜・井伊直弼・勝海舟・榎本武揚。諸藩では長州に吉田松陰 (軍学者・松下村塾を開く) ・高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・井上馨・山形有朋・大村益次郎。薩摩に島津斎彬・島津久光・西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆。土佐では後藤象二郎・坂本竜馬・中岡慎太郎・板垣退助・そして昨年の大河ドラマの主人公、山内一豊の子孫、藩主山内容堂・さらに三菱財閥の創始者岩崎弥太郎。肥前には早稲田大学の創始者でもある大隈重信・江藤新平・副島種臣。会津藩主にして京都守護職だった松平容保。水戸藩主徳川済昭・水戸学の藤田東湖。そして公家では三条実美・岩倉具視。などなどなど…きりがない。時代を大局的に見たら近藤勇・土方歳三・沖田総司などの新撰組は枝葉にしか過ぎない。 (※ここで歴史を講釈しようなんてつもりは毛頭ないから、幕末に興味のある人や詳しいことを知りたい人はぜひ司馬遼太郎の本を読んでみてください)

  さて、白虎隊。歴史的事実の詳細は述べないが、簡単に言うとこういうことだ。西洋の国々の情報を諸藩に比べ多く持っていた幕府は、アメリカやイギリスの武力の凄まじさがおぼろげながら分かっていた。当然戦わずにうまくやろうとする。これに対し、武力を背景に力を持ち始めた長州は 「ふざけるな、けっして外国人に日本の土は踏ませぬ」 と攘夷思想で幕府に対抗する。長州の大名・毛利氏は1600年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利輝元の子孫だ。輝元は戦国時代末期には中国地方をほぼ手中にしていた大大名だった。敗北後、同族の吉川広家の取り成しで粛清・改易は免れたが、周防・長門の2国36万石に減封され、さらに交通の便の悪い萩に築城することを命じられた。これらの経緯から徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行う慣わしがあったそうだ。長州にとっては250年来の恨みを晴らす絶好の機会となった。長州の攘夷派は京都を荒らし始めた。幕府側の人物を次々に暗殺するその無法振りは半端ではない。武力もある。そんな中、会津の松平容保は京都守護職に命じられた。京都守護職は攘夷派の蛮行に困り果てた幕府が、京都の治安回復・維持のために新設した職で就任することは貧乏くじを引くようなものだった。新撰組も新しく考えられた組織で京都守護職の下に就くことになる。できることなら誰もが就きたくない職だったが、実直な松平容保は幕府のために、会津の存在感を示すために京都へと向かった。そして、何度となく長州を叩きのめしたが、これがまた恨みとなった。最初は会津と共に長州を退けた薩摩もまた関ヶ原の恨みを忘れてはいなかった。250年もの間耐え忍び藩を存続させた。江戸からの密偵に分からないようにと言葉をどんどん崩していった。その結果、鹿児島弁は最もわかりにくい方言となった。幕府を見限った薩摩は坂本竜馬の活躍 (と言われている) で密かに長州と手を組んだ。薩長同盟である。この2藩は単独でイギリスと戦争をして散々に蹴散らされた経験があり、蛮勇の副産物として相手の力を知ることができた。それどころかイギリスと組み、新兵器を手に入れ兵を英国式に組織化することに成功した。更に一度は弓を引いた朝廷をも味方につけてしまったのだ。朝廷にも大きな変化があった。孝明天皇は容保の良き理解者だったが、こともあろうに35歳の若さで崩御してしまったのだ。次いで即位した15歳の明治天皇の手に国を委ねるなんて土台無理な話だった。

  古代中国のころから皇帝や天皇が味方した軍勢を官軍と呼び、その相手は賊軍とされた。賊軍は武士にとっては汚名だ。戦う意欲も半減してしまう。会津は直向 (ひたむき) に職をこなしただけで賊軍となってしまった。むなしくも敗北を認め謝罪しようとする会津に対し、官軍、とくに長州は執拗だった。無理難題を押し付けて許そうとはしない。そして武士の心情を利用して戦わなければならない方向へと追い込んでいった。あまりの理不尽さに、会津を救おうと東北・北陸の諸藩が手を結んだ。奥羽列藩同盟である。そして両者が激突した戦いを戊辰戦争という。 (※幕府方の抵抗は1869年の函館・五稜郭における函館戦争の敗戦まで続いた) 兵器の差はあきらかだった。カミソリと日本刀では勝負にならない。鉄砲とマシンガンで勝負ができるか。ここで余談をひとつ。何年か前に仕事で佐賀に行ったときの話だ。沢田研二さんのツアーの一環で佐賀市民会館でコンサートがあった。サウンドチェックが始まる前の時間を利用して近くを散策していたら寺があった。その寺にはおよそ不釣り合いな大きな大砲が置かれていた。アームストロング砲だった。戊辰戦争で反政府軍を壊滅させた幕末最新鋭の武器だ。 (※佐賀藩は薩英戦争で使われたアームストロング砲の製造に日本で初めて成功した) 佐賀は官軍だったから政府軍の記念品があってもおかしくないのだろうが、今でも通用しそうな長く頑丈そうな砲身に違和感を感じたのを覚えている。

  あっという間に兵が不足した会津は藩校である “日新館” の15、16歳の少年たちをも戦場に駆り出した。彼らによって組織されたのが 『白虎隊』 だ。第2次世界大戦末期に学生までが動員された状況とよく似ている。初出陣の翌日、激しい戦闘の末、生き残った隊員たちは逃げ込んだ飯盛山から街を見下ろした。 「あっ!」 街は燃えていた。燃え上がっていた。彼らは城が燃えていると勘違いをした。 「会津は負けた」 「殿と共に死のう」 「生きて辱めを受けてなならない」 彼らにとっては、もはや死ぬことが名誉だった。死ぬことが会津の誇りだった。いつの時代でも名誉や誇りに殉じなければならない人々がいるのだ。20人の若者が自害して果てた。 (1人だけ蘇生し、19人が死んだ) 白虎隊の物語は 『誰のために』 『何のために』 死ななければならなかったのかを問うていた。 『生きる覚悟』 『死ぬ覚悟』 を持った少年たちの生き様、死に様を描いていた。

  僕の頭にはもうひとつのキーワードが浮かんでいた。 『恨みの深さ』 である。この物語には常に恨みの力が働いていた。長州の徳川家に対する恨み、薩摩の徳川家に対する恨み、長州の会津に対する恨み。恨みはそこまでも深いものなのか。人は恨みを抑えることはできないのだろうか。恨みの矛先を必ずだれかに向けなければならないのだろうか。残念ながら、会津若松市 (会津藩) と萩市 (長州藩) の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われている。以前、福島県出身の女性が 「今でも年寄りは山口県の人のことを悪く言うんですよ。まだ許していないんです」 と言っていたのを思い出した。また、数年前のこんな話も思い出した。赤穂浪士で有名な忠臣蔵の話をご存知だろう。赤穂浅野家があった赤穂市と吉良上野介の領地だった愛知県幡豆郡吉良町は長年に渡って犬猿の仲だったが、300年ぶりに仲直りをしたというニュースだった。 「そんな話があるのか」 とかなり驚いたが、よく考えてみると世界にはそんな話があふれている。世界のいたるところで恨み辛みの感情が渦巻いている。いや、こういった問題を抱えていない国、地域はないと言ってもいいだろう。人は親切にされたこと、よくしてもらったことは簡単に忘れても恨みだけは忘れないものなのだ。あきらかに偏っている。この偏った僕たち人間だからこそ、許し続けた先人の言葉や行動を大切にしなければならない。キリストはなんと言ったか、仏陀はなんと言ったか、マザー・テレサはどう行動したか、ガンジーはどう行動したか。

  これが永遠のテーマだとしたら、人は 「恨み続ける動物だ」 と自覚したうえで “恨み” に立ち向かう勇気を持たねばならない。なんとむずかしいことか。しかし何が何でもこの “人類最後の” と言うべき課題を克服しなければならない。克服しない限り人類に未来はない。
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